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大そうじへの備え
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(第327号、通巻347号) 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」。1952年(昭和27年)から翌年にかけ放送されたNHKの連続ラジオドラマ「君の名は」の、有名な冒頭のナレーションである。明治時代、石川啄木に「さいはての駅に降り立ち……」と詠われた北海道・釧路の片田舎の小学生が「忘却」もせず覚えているのだから、毎週木曜夜の放送日には雑音混じりの“真空管ラジオ”にかじりついて聴いていたのだろう。しかし、このナレーション、叙情的な詩の響きはもつものの、よくよく字句をみれば、単なる同語反復にほかならない。原作者の菊田一夫の魔術にのせられたわけだ。 「忘」の関連で思い出すのは「失念」という単語である。うっかり忘れることをちょっと気取って言う感じがある。「“失念”と言えば聞きよい“物忘れ”」と、川柳で冷やかされる通りだ。このブログを書いている私自身、居間で「失念は辞書では
(第328号、通巻348号) 「とても」という副詞を「全然」との関連で本ブログに取り上げたのは6年前のことだが、正直に言えば、とても、が本来は打ち消しを伴う一種の“予告副詞”だということをそれまでは深く認識していなかった。だから、『日本国語大辞典』第2版(小学館)に芥川龍之介が『澄江堂雑記』(1924年)で 「『とても安い』とか『とても寒い』と云う『とても』の(が)東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。(一部略)従来の用法は『とてもかなはない』とか『とても纏(まと)まらない』とか云うように必ず否定を伴ってゐる。肯定に伴う新流行の『とても』は三河の国あたりの方言であらう」と書いているのを知って“とても”驚いた。 今回は“予告副詞”の焦点をしぼるつもりだが、その前に、「とても」の辞書的な意味・用法を調べよう。 『広辞苑』(岩波書店)や『大辞林』(小学館)などの国語辞典には、「とてもか
(第323号、通巻343号) 「神の手」。日本の考古学の歴史を根底から塗り替えるような“旧石器”を次から次へと発掘してきた東北地方のアマチュア考古学者・F氏は、そう呼ばれていたが、実は「捏(でっ)ち上げの手」だった。今から13年前、毎日新聞はF氏の捏(でっ)ち上げの現場をビデオカメラに収め、「旧石器発掘ねつ造」とスクープした。日本史の教科書が、旧石器時代の項をそっくり訂正せざるをえないほどの衝撃的なニュースだった。 この大スクープの裏側を描いたドキュメント『発掘捏造』(新潮文庫)がたまたま私の団地の共用図書館の書架にあった。すぐに借り出して一気に読了した。「捏造」の「ねつ」が紙面では、ひらがなになっているのは、常用漢字でないためで、新潮文庫では表紙に「はっくつねつぞう」とルビが振られていたが、「捏」とはそもそもどんな意味なのかと家人に尋ねられ返事に窮した。 漢和辞典2、3冊にあたってみたと
(第321号、通巻341号) よくもまぁ、これほど数多く収集したものである。『新明解国語辞典』の編纂者、山田忠雄主幹の著作『私の語誌』(三省堂)の第2巻は、副題に「私のこだわり」とある通り、「こだわる(名詞形、こだわり)」の用例のオンパレードである。ほとんどすべて新聞記事から採録したものだが、ざっと数えたところ、380をゆうに超えていた。 しかも、文脈が分かるように前後の文章をかなり長めに引用し、その後に文例を分析、短評を加えている。しかし、ブログにこれらの主だったものだけでも紹介するのは煩瑣になるので、単行本の結論的な個所と、著名な文章家の「こだわり」に対する山田主幹の批判、いや罵倒とも言うべきすさまじい酷評ぶりを紹介しよう。 まず、「こだわる」の根源的な意味は「それだけを唯一・至上の目標として追求する。若しくは、それを手中から離すまいとする」に帰するとしたうえで、この語は多用されている
(第314号、通巻334号) 「最近の高校生は、日本茶の入れ方を知らないばかりか、急須の使い方も知らない」――1月27日付けの朝日新聞社会面にこんな記事が出ていた。日教組の教研集会で家庭科の女性教諭が発表した内容だ。その先生の報告によれば、茶葉と水を入れた急須を直火にかけようとした生徒もいたという。 この記事を受けて翌日の同紙「天声人語」は、「粗茶ですが」とか「茶柱が立つ」といった言葉も知らないのではないか、と危惧し「文化や歴史をまとう“お茶”と無縁に子らが育つのは寂しい」と嘆いていた。二番煎じで恐縮だが、私も新聞記事にまったく同感だ。 お茶といえば、東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の校長を務めた岡倉天心が明治時代に「茶道は日本の伝統的民族文化の結晶」として英文で『茶の本』(The Book of Tea)という題の著作にまとめ、世界に紹介した我が国独自の“芸術”である。にもかかわら
(第307号、通巻327号) 12月も半ばになれば、歳末商戦も本格化する。デパート、スーパー、コンビニ、小売店にとっては「かきいれどき」だ――こうワープロソフトで打つと「書き入れ時」と変換された。おやっ、「掻き入れ時」が正しいはずなのにおかしい、と思う人も多いのではあるまいか。実は私もその1人だった。 実は、正解は「書き入れ時」。意味は、言うまでもなく、商店などで売れ行きが最もよく、もうけのきわめて多い時期(時間帯)のこと。売り上げを帳簿に書き入れるのに忙しい時の意から生まれた言葉だ。売り上げを「掻き集める」意味ではないのだという。『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)が「『掻き入れ時』と書くのは誤り」とわざわざ述べているのは、誤用している人が多いことの現れだろう。 このような思い込みによる言葉の誤用はかなりある。元気のない人を刺激して力づける「かつを入れる」の「かつ」。つい「喝を入れる」
(第305号、通巻325号) 「ちがくない」、「すきくない」。こんな妙な言い方を耳にするようになったのはいつごろからだろうか。若者たちの間ではすでに20年ほど前から使われていた、と言う人もいる。一時的なハヤリとは言えない。日本語文法の変化の兆候の一つだろう。「違う」を否定するなら「違くない」ではなく、「違わない」とすべきであり、「好き」の否定なら「好きくない」ではなく、「好きでない(好きじゃない)」とするのが普通だが、言葉の変化は、前回のブログになぞらえて言えば「すごい速い」と感じる。 「違う」はれっきとした動詞だ。語幹は「ちが」。5段活用なので、否定の助動詞「ない」に接続するときは未然形の「わ」の活用語尾を付けて「違わない」となる。『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)には、「違う」の見出しの語義の後にわざわざ[注意]を設け、以下のように述べている。 [「違く」の形で形容詞のように使うの
(第296号、通巻316号) 年間を通して気温が低い故郷の釧路は、桜(ソメイヨシノ)の開花も関東地方より1カ月半から2カ月遅い。ところが、桜でも「秋桜(アキザクラ)」が咲くのは早い。私が9月始めに高校時代のクラス会で帰省した折には、街中のあちこちで花開いていた。「この時季に?」と一瞬、怪訝に思ったが、考えてみれば、寒冷地なのだから秋の訪れが早く、秋の花々が咲くのもまた関東地方より早いのは当然のことと気づいた。 秋桜は、「コスモス」の和名である。と言っても、「秋桜」と書いて「コスモス」と読まれるようになったのは、さだまさしが山口百恵のために作詞した歌がきっかけだ《注1》。それはともかくコスモスといえば、宇宙の意味もある。元来はギリシャ語だという。『日本国語大辞典』第2版(小学館)には、「ギリシア神話で、秩序整然とした調和ある世界。宇宙。秩序」を指す、とある《注2》。 花の名としての意味は2番
(第294号、通巻314号) 「汚名挽回」という言い方は誤用ではない――。『明鏡国語辞典』(大修館書店)の編者グループが唱える説は、理論的には筋が通っている。同辞典編者の北原保雄氏のグループが執筆している単行本『問題な日本語』の小さなコラムで次のような主旨の持説を述べる。 〔 「挽回」は取り戻す意だから「名誉挽回」は正しいが、「汚名挽回」は誤り、というのが新聞をはじめとした大方の意見だ。ところが、「挽回」には、巻き返しを図る意がある。これで解釈し直すと「劣勢を挽回する(=巻き返す)」、「衰退した家運を挽回する(=立て直す)」、「不名誉(汚名)を挽回する(=巻き返す)」などのすべて正しい言い方となる。「汚名挽回」を「汚名返上」に訂正する必要など最初からなかったのだ 〕 『明鏡国語辞典』本体では、「『汚名挽回は誤用である/誤用でない』の両説がある」と記しているだけだったが、単行本では一気に2歩
(第292号、通巻312号) ロンドン五輪後の余熱も、先日行われたメダリストたちの銀座パレードで一段落した感じだが、五輪に限らずスポーツや選挙など勝ち負けに関係する世界では「雪辱」という言葉がしばしば登場する。「北京五輪の雪辱を目指し、猛練習してきた甲斐があった」「前回の総選挙の雪辱を期したい」などという具合だ。 しかし、うっかり「雪辱を晴らす」と用いる人がかなりいる。いや、うっかりではなく、雪辱は晴らすものだ、と思い込んでいるケースの方が多いかもしれない。実は、この用法は間違いなのである。正しくは「雪辱を果たす」だ。 雪辱の「雪」は、漢和辞典の『字通』(平凡社)によれば、すすぐ、そそぐ、ぬぐう、きよめる、のぞく、ふきとる、 しろい、きよらか、という意味だ。雪のように白くきれいにする、ことから来ていると思われる(「晴らす」もほぼ同義)。「辱」は文字通り、はずかしめ、恥、の意だから、2文字合
(第291号、通巻311号) メダルラッシュに湧いたロンドン五輪が閉幕した。14日付けの朝日新聞の1面コラム、天声人語は「日本選手団のメダルは過去最多の38個。これにて彼らは重圧から、我らは寝不足から解放される」と書いた。まことに言い得て妙だ。 テレビで五輪の実況中継を見ながら感動的な名勝負や予想外の試合展開に「鳥肌が立つ」思いをした人も多いだろう。私もその1人だ。しかし、意外なことに、感動した時に「鳥肌が立つ」と表現するのは、昭和の終わりから平成に入ったころになって広まった新しい用法のようだ。 ちなみに、1998年(平成10年)11月11日発行の『広辞苑』第5版の「鳥肌」の項には「皮膚が、鳥の毛をむしり取った後の肌のように、ぶつぶつになる現象。強い冷刺激、または恐怖などによって立毛筋が反射的に収縮することによる。俗に『総毛立つ』『肌に粟を生ずる』という現象」と百科事典並に詳しい説明がほど
(第289号、通巻309号) なにげなく(何気無く)テレビのスイッチを入れたら、ロンドン五輪の女子柔道57キロ級で松本薫選手が日本初の金メダルを取った場面だった――この文章の冒頭の「何気無く」の「無」を省いて「なにげ(何気)に」とした場合、少々違和感を覚える人はいるにしても、意味は十分通じるだろう。 しかし、国語辞典で「なにげに」を見出し語として正規に立項し、認知しているものはほとんどない。新用法に寛容な『明鏡国語辞典』第2版(大修館書店)ですら「なにげない」の見出しの語義の後に〔注意〕として「近年、『何気なく』『何気なしに』を「何気に」と言うが、誤り」とキッパリ断定し、『新明解国語辞典』第7版(三省堂)も、「何気無く」を「何気に」というのは誤用、と同様の注記を加えている。 『岩波国語辞典』第7版によれば、「何気ない」の項で「これの副詞的用法「何気無く」を「何気に」と言うのは1985年ごろ
(第281号、通巻301号) なにかを計画する時に周囲との関係や将来への影響などを考え合わせることを「慮る」という。例えば「相手の立場を慮る」、「事態を慮る」などと使う。この「慮る」をどう発音するか。 「おもんばかる」。私自身は、そうとしか読みようがないと思ってきた。ところが、前回のブログで「生保」を「ナマポ」と発音する今時の若者の言葉遣いを取り上げた際、ついでにいろいろ調べているうちに、ひょんなことから「慮る」の読み方が一様でないことを知った。博識の方にとっては常識かもしれないが、私にとっては新鮮な驚きだった。 小学館の『日本国語大辞典』第2版によれば、「おもいはかる」の変化した語とある。それが「おもんはかる」に変わり、さらに「は」が濁音化して「おもんばかる」という読み方になった、という。中世から近世の日本語を採集して編纂された『邦訳 日葡辞書』(岩波書店)には「ヲモムバカル」《注》と表
(第280号、通巻300号) 東京・秋葉原の街頭で若者たちに「生保」と書いた文字を見せ、どう読むかインタビューしているテレビ番組があった。ほんの数日前のことだ。途中から覗いたテレビだったので、番組の前後の流れが分からず、地名のテストかと勘違いして頭の中に一瞬「おぼない」と言う読みが浮かんだ。秋田県の田沢湖近くに「生保内」と書いて「オボナイ」と呼ぶ町(秋田県仙北市)があるからだ。 けれども、テレビの画面で示されていたのは「生保」と2文字。「内」という字が抜けている。とすれば、私の常識では「セイホ」としか読みようがない。言わずもがな、生命保険の略だ。なのに、マイクの前で若者たちは誰もが「ナマポ」と言うではないか。中には、恥ずかしそうな、照れくさそうな表情を見せる人もいたが、「セイホ」と言った若者は登場しなかった。 お笑いタレントの母親の生活保護費受給問題を取り上げた番組の狙いから言えば、生保は
(第268号、通巻288号) 弥生3月は旅立ちの季節。私の小中学生時代は、卒業式のたびに「蛍の光」と「仰げば尊し」《注1》を歌った、いや歌わせられたものだった。今や、卒業式の音楽も多様化し、昔ながらの「定番」を歌うのは珍しくなったというが、先日のテレビニュースで東日本大震災の被災地の高校や看護学校などの卒業式の様子を見ると、家族を亡くし、友を失った卒業生が涙を流しながら「仰げば尊し」を歌っているシーンがあった。年配の人は歌詞もほぼ暗記しているだろうが、その内容は意外に奥が深く、難解である。 仰げば 尊し 我が師の恩 教えの庭にも はや 幾年(いくとせ) 思えば いと疾(と)し この年月 今こそ 別れめ いざさらば まず、2行目後段。「早く行ってしまう」「早く行け」というわけではない。続く3行目の「いととし」。始めの「いと」は、「いとをかし」などの表現に使われる副詞で「非常に」とか「たいへん
(第267号、通巻287号) 一知半解の身で、辞書の語釈の当否を軽々に断じるものではない。前週の第266号に対する愛読者の方々のコメントや感想を読んで、そう思った。今週号の標題は、読者のコメントの一つに紹介されていた『三省堂国語辞典』の編集委員・飯間浩明氏のホームページから引用させていただいたものだ。 飯間氏のホームページによると、同辞典の第6版の編集段階で「足をすくわれる」と「足下をすくわれる」とのどちらの言い方が適当か、議論になった、と議論の過程をかいつまんで紹介した後、「足をすくわれる」の方が本来の言い方だとする意見もあるが、「足を〜」も「足下を〜」も昭和に入ってからのもので、用例の資料では「足を〜」がせいぜい20年ほど古いに過ぎないという。 その上で飯間氏は、「理屈の点からも、言い回しの新古の点からも、『足下〜』を不採用にする理由はない」と述べ、続けて「日本語の用例収集に一身を捧げ
(第266号、通巻286号) 言葉はいつの間にか変わっていく。意味も、語彙も、用法も、さらには文法も。これからしばらくは、言葉の用法を中心にエピソード風につづっていきたい。 最近、ある本を読んでいたら「足元をすくわれる」という表現に出合った。すきを突かれて失敗した、というような文脈だったが、それなら「足をすくわれる」という表現になるのではあるまいか。「足元を」か「足を」か。どちらが正しいのか自分自身にも迷いが生じてきたので、何冊かの辞書に当たってみた。言葉が変われば、辞書にも少しずつ変化の兆しが表れてくるからだ。 まず、愛用の『明鏡国語辞典』(大修館書店)。2002年12月発行の初版だ。「足」の見出しの項に約50行ものスペースをさいて語釈を解き、慣用句をあげなながら、「足元をすくわれる」も「足をすくわれる」も見当たらない。新しい用法に寛大な辞書にしては意外だったが、2010年12月発行の第
(第265号、通巻285号) 前号からの続きの今回をもって再録シリーズの最後としたい。「お誕生」「ご誕生」のように、「お」も「ご」も使える単語はそう多いわけではないが、少しずつ増えつつあるように見える。前回のブログの末尾でも紹介した、このような「相乗り」語には規則性があるのだろうか。私が調べた限りでは明確な基準はないように思われるが、ある傾向はうかがえる。「ご」→「お」、「ご」=「お」の移行である。 冒頭に例を引いた「誕生」は漢語だから基本ルールからいうと「ご誕生」となるべきであり、「お誕生」はありえなかったはずだ。しかし、現実には「お誕生日、おめでとう」とか「お誕生会」とかなどとごく日常的に使われており、なんの違和感も覚えない。「祝辞」「勉強」「年始」なども「お」と「ご」の両用を耳にする。 「ご」が、尊敬を表すことが多いのに対し、「お」は、尊敬はもちろんのこと、美化や冷やかし、皮肉、ある
(第257号、通巻277号) 辞書を比較する際に私がよく使う「右」という語を指標にして辞書の個性の違いを見てみよう。日本初の近代的な国語辞典・大槻文彦著『言海』(六合館)。明治37年2月発行の第1版では、「人ノ身ノ、南ヘ向ヒテ西ノ方。左ノ反(ウラ)。ミギリ」ときわめてオーソドックスな語義を記している。辞書で右(or左)を説明するのに「北に向かって東(or西)の側」などと方角を援用するのは英米の辞典をはじめ日本でもよく見られる手法だ。 では、国民的辞書を自称する岩波書店の『広辞苑』の最新版(第6版)ではどうか。「みぎ【右】(ニギリ=握り)の転か)」と見出しの直後に語源を添え、続いて「南を向いた時、西にあたる方」と、『言海』とまったく同じ記述ぶりだ。愛用の辞書『明鏡国語辞典』第2版(大修館書店)は「人体を対称線に沿って二分したとき、心臓のない方。話し手が北を向いたとき東に当たる方」と説明、やは
(第256号、通巻276号) オリンパスの損失隠し問題をめぐって第三者委員会が先週公表した報告書の中に、目を引く表現があった。問題の根源に「悪い意味でのサラリーマン根性の集大成とも言うべき状態」があったと断罪したのである。 前回のブログで『新明解国語辞典』第7版(以下、『新明解』と略)を取り上げたが、その新聞広告の中に実は「サラリーマン根性」という語の運用例も掲載されていた。「『サラリーマン根性』などの形で、定期的な収入を得て安定した生活をすることを第一として仕事に情熱や意欲を持とうとしない、サラリーマンの陥りがちな人生態度を、非難や皮肉の気持ちを込めて言うことがある」。 これは、語釈ではなく「運用」欄に書かれたものだが、個性的な解釈ではある。それは、『新明解』の編集主幹を務めた故山田忠雄氏の個性を反映したものにほかならない《注》。山田主幹は、好悪の情が激しかったかった方のようだ。たまたま
(第255号、通巻275号) 三省堂の『新明解国語辞典』は、辞書好きの間では「新解さん」(以下、「新明解」と略)の愛称で知られる《注1》。その第7版が「本日発売」と12月1日付けの朝日新聞朝刊に全面広告で掲載された。「日本で一番売れている国語辞典」のキャッチコピー付きだ。辞書マニアをもって任じる言語郎としては、是も非もない、すぐさま近所の書店にかけつけ買い求めた。 新しい種類の辞典が出版される時、あるいは第6版から第7版になった、今度の『新明解国語辞典』のように改訂版が出される時は、新しく収録された新語に注目が集まりがちだ。だから出版社側は、「新語をいくつ入れ、収録項目はいくつに増えた」などと新語収録をうたい文句にしがちなのだが、『新明解』第7版の場合は、いささか様相が違う。 「本日発売」の新聞広告には、20の単語の語釈(1語は運用説明のみ)を載せているが、どれも7版になって初めて収録した
(第254号、通巻274号) 前号に引き続き漢字の読み方について。「人間」という2文字の順序を逆にして「間人」《注1》と書けば何と読むかご存じだろうか。京都など近畿方面の旅から戻り、最寄り駅に降り立って帰宅途中の知人とばったり出会った際、挨拶がてらの立ち話の中で「間人ガニ」《注2》と呼ばれる絶品のマツバガニを堪能してきたという土産話を聞いた。「間人」は「たいざ」と読むのだという。 もちろん、この言葉自体は「かんじん」とも読む。白川静の大著『字通』(平凡社)の「間人(かんじん)」には「ひま人」の用義例がある。また、『新潮日本語漢字辞典』の「間人」の見出しの項には、2通りの読みが載せられている。最初に挙げられているのがやはり「かんじん」だ. 語義として「1)敵地に入り込んで情勢など探る人 2)用事がなくて時間をもてあましている人。また、俗世を離れて静かに暮らす人」と記述している。また、問題のマ
(第249号、通巻269号) 「赤とんぼ」を子どもの頃、口ずさんでいて分からなかったのは1番の歌詞の「おわれてみたのは」の「おわれて」だった、という人が少なくない。漢字で「負われて」とあれば、誤解は避けられるが、耳から聴いただけでは「追われて」とも受け取られるからだ。いったい何に(or誰に)追われるのか、という疑問だ。もちろん、ここは「負われて」つまり「背負われて」の意。作詞者の三木露風《注1》は幼い頃、子守娘におぶわれて赤とんぼを見た、のである。子守娘とは、3番の歌詞に出てくる「姐や」を指す。 この「姐や」を「姉や」と勘違いし、露風の姉のことだと解釈している人もいる。文春文庫の高島俊男著『お言葉ですが…4 広辞苑の神話』に、ある雑誌を見ていたら〈現在では15歳で嫁に行くなどとは考えられないし、少子化で15歳の長姉が(歳の)離れた何番目かの弟を背負って子守りすることもなくなった〉とあったこ
(第244号、通巻264号) 文中に「人気」という2文字を目にしたらごく自然に「にんき」と読む。ただ、文脈によっては「人気のない境内」などのように「ひとけ」と読む場合もある。しかし、「じんき」という読み方までは思い至らなかった。 昭和半ばころの、ほんの少し前までの市井の古い言葉に巧みだった作家の向田邦子の回想録に「人気」と書いて「じんき」と読ませる個所がある。向田が飛行機事故で亡くなってから30年になるのを機に朝日新聞夕刊で連載した「人生の贈りもの」という記事だ。妹の向田和子さんからの聴き語りをまとめたものだが、その3回目「闘病の姉と『ままや』開店」で和子さんが姉から「女同士でも気軽に入れる店をやりましょう。人気の良い場所でね」と小料理屋を開くよう勧められる行(くだり)で「人気」の2文字に「じんき」とルビが振ってあった。 「人気スター」とか「若者に人気のある」など“popular”という意
(第239号、通巻259号) 東日本大震災の被災地・岩手県陸前高田市の松を薪にして京都の伝統行事「五山送り火」で燃やす計画が二転三転の末、京都市側が「薪から放射性物質が検出された」と受け入れ拒否を決めたことをめぐって陸前高田市側は「岩手が危ないという風評被害をいたずらに広めるものだ」と猛反発、市民の中にも怒り心頭の人が少なくなかったようだ。 ここで言う「怒り心頭」は話し言葉では時々使われる。本来なら「怒り心頭に発する」とすべきところを省略した言い方だ。激しく怒るという意のこの慣用句について文化庁が数年前に行った調査では、「怒り心頭に達する」と間違えている人が圧倒的に多かったという《注》。「発する」と「達する」。語調も似た感じなので、この言葉に最初に接した時、「達する」と“刷り込まれる”と後になってからではなかなか違いに気づきにくいのだろう。 講談社現代新書『新編 日本語誤用・慣用小辞典』(
(第234号、通巻254号) 思い込みによる言葉の間違いは、辞書編纂(へんさん)者も凡人と同じように犯すことがあるようだ。 エンスト。意図しない所で不意に車のエンジンがストップしてしまうこと。この語は、エンジン・ストップ(engine stop)という英語を日本流に略したものだ、と思い込んでいた。ところが、数日前、当ブログの愛読者の1人から「三省堂の辞書は間違いが多い。エンストをエンジンストップの略語だと、解説しているが、正しくは“エンジン・ストール”の略語である」という趣旨のコメントが寄せられた《注1》。 まさか、と思いながらもさっそく各辞書に当たってみた。いつもと手法を変えて、まず和英辞典を引くと、『スーパーアンカー和英辞典』(学研)は「エンスト」の項で「engine failure[stall]」と英語を示した後、「危ないカタカナ語」なるコラムを設けて次のように親切に教えている。 「
(第226号、通巻246号) 東日本大震災から11日で2カ月。未だに肉親が見つからない人もいれば、原発の放射能による“透明汚染”で自宅を追われている人たちもいる。惨禍をもたらしたあの大地震。NHKなど各放送局は“3.11”に限らず「大地震」を「おお地震」と読むのが常だが《注1》、世間一般では「だい地震」と発音する人の方が多いのではないだろうか。しかし……。 『NHKことばのハンドブック』(1992年3月25日発行)は、[接頭語「大」のつく言葉で、「だい」か「おお」か迷うことがよくあるが、「大地震」の場合は、正しくは「おおじしん」である] 《注2》と説明している。後段を読むと、実は読み方の揺れについても一応言及しているのだが、正しい読み方は「おおじしん」と明言していることに変わりはない。 さらに同書は、「大」の読み方の一般的な決まりを次のようにいう。[原則として「大」のあとに漢語(音読みの語
(第225号、通巻245号) 1週間ほど前に『齋藤孝のざっくり!西洋思想』(祥伝社)という題名の本が発売された。齋藤孝氏と言えば、私が最初に読んだ著書は『声に出して読みたい日本語』だが、間口が幅広いのには驚く。文章術から古典の解説、教育論まで様々な分野にわたる著作を次から次へと出版、合間にテレビにも出演する、当代きっての売れっこ学者だ。 中でも言葉に関する著作が多い。その日本語の専門家が書名に使っている「ざっくり」にひっかかりを感じた。調べてみたところ、氏の著作には『齋藤孝のざっくり!日本史』(2007年12月)や『齋藤孝のざっくり!美術史』(2009年10月)など「ざっくり」を書名に取っている本が他にもあることを知った。 核心にズバリ切り込み「詳しく」書いた本の意なのか、概略を「大ざっぱに」に分かりやすく解説した本の意なのか、あるいはまったく違う意味なのか。結論的に言えば、2番目の意味で
(第224号、通巻244号) 前号で紹介したピーター フランクル氏の『美しくて面白い日本語』(宝島社)の続きである。語学の天才、フランクル氏がテレビのクイズ番組で立ち往生した漢字の読みは、「具に」(つぶさに)の他に3文字あった。「予て」「挙って」そして「模る」だ。 このうち、「予て」は「かねて」、「挙って」は「こぞって」と読む、と知っている人も多いに違いないが、「模る」はどうだろうか。というのも、この字の訓読については、辞書によって扱いが微妙に違っているからだ。 クイズでの正解は「かたどる」。まず、国語辞典で確かめてみよう。規範性が高いとされる『岩波国語辞典 第7版』では、「かたどる」の漢字は「象る」《注1》。「『……』に『――』の形で、元となる……の形を写し取って表す」の語釈に続けて「波に象った模様」の例文を挙げているが、「模る」の漢字はない。新語に強い『三省堂国語辞典』第6版も見出しに
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