2025-11-15

いつも議論になる男性エスコート問題について、多くの男性が感じているであろう矛盾と、それによって引き起こされる悪循環構造について、一度整理して提起したい。

女性から日本男性エスコートが足りない、気が利かないといった主張がよくなされる。

しかし、多くの男性は気が利かないのではなく、意図的に何もしないという選択をしている。

なぜなら、その主張には致命的な矛盾と高すぎるリスク内包されているからだ。

ここでは主張する女性をAさんとし、その構造を3つのステップ分析する。

まず、主張における隠れた前提の問題

Aさんが男性女性エスコートすべきだと主張するとき、その言葉の裏には、多くの場合自分好意を抱く、あるいは許容範囲内の素敵な男性スマートに扱われたいという隠れた前提が存在する。

しかし、主張する側はこの隠れた前提を明示しないまま、男性はという大きな主語理想論を主張する。 この隠れた前提の省略が、すべてのすれ違いの始まりである

次に、エスコート時におけるダブルスタンダード問題

Aさんの主張を真に受けた男性が、実際にエスコートを実行した場合、何が起こるか。

一つ目のパターンは、実行者がAさんの隠れた前提を満たす男性、例えばAさん好みのイケメンだった場合。 その行為理想的エスコートとして、好意的に受け入れられる。Aさんは満足する。

二つ目パターンは、実行者がAさんの隠れた前提を満たさな男性だった場合

ドアを開ける、荷物を持とうと手を伸ばす、車道から庇うために肩や腕に触れるといった、パターン1と全く同じ行為であっても、それはエスコートとは見なされない。

それは不快行為、馴れ馴れしい、セクハラだとして、拒絶・非難対象となる。

ここで発生しているのは、行為のものではなく、実行者が誰かによって評価が180度変わるという、強烈なダブルスタンダードだ。

Aさんはエスコートすべきと主張したその口で、前提外の人物からエスコートセクハラだと断罪する。

ただしイケメンに限る」を生み出しているのだ。

最後に、男性側の合理的な何もしないという選択について。

多くの男性は、これら2つの構造感覚的に、あるいは経験的に深く認識している。

まりエスコートという行為は、実行者次第でセクハラという重大なリスクに転化することを知っている。

ここで、男性側が取るべき行動を合理的に考えてみる。

もしエスコートを実行した場合成功すれば報酬として少し感謝されるかもしれないが、失敗すればセクハラ加害者認定される重大なリスクを負う。

一方で、何もしないことを選んだ場合リスクは気が利かない人と思われる程度だ。

このリスクとリターンを天秤にかければ、失敗がもたらすリスクは、成功がもたらす報酬に比べて、あまりにも壊滅的に大きい。

したがって、多くの理性的で、かつAさんを不快にさせたくないと願う誠実な男性ほど、リスクを冒してセクハラ扱いされるくらいなら、

最初から何もしないという、最も合理的防衛的な選択をすることになる。

この何もしないという行動は、無関心や怠慢ではなく、むしろ相手不快にさせないための積極的配慮であり、リスクマネジメントの結果なのだ

結論として、これが抜け出せない悪循環を生み出している。

まず、Aさんが男はエスコートすべき!と隠れた前提を伏せて主張する。

次に、男性側はセクハラ認定リスク認識しているため、合理的判断として何もしないという配慮選択する。

しかし、Aさんは男性の何もしないという結果だけを見て、その裏にある配慮リスク回避の意図に気づかない。

そしてAさんは、やはり日本男性は気が利かない!と失望し、再び最初の主張に戻る。

男性側がAさんを不快にさせないよう配慮すればするほど、Aさんは配慮が足りないと主張するという、完全な手詰まり状態だ。

この構造的な問題解決しない限り、エスコートをめぐる議論永遠に平行線を辿るのではないだろうか。

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