また夏がくる。
だから話しても良いだろう。
サマーウォーズは表層的には、「デジモン」や「攻殻機動隊」に良く似て見える。
もっと有り体に言えば「デジモン2 ぼくらのウォーゲーム」の焼き直しに見えるだろう。
しかし違う。
アカウントを盗まれてパニックに陥りながらなんとかたどり着いた自分の偽物(どうみてもネズミの魔法使いの弟子だが)に対して彼はこう言う。
『ネットの中だからって、何でもやって良いと思ったら、大間違いだ!』
既に携帯電話と結びついたアカウントを盗まれているために、彼は携帯電話を使えなくなり、
実害が起きているにも関わらず、彼の言葉はひどく軽く聞こえる。
それほど彼の言葉は軽い。
確かに軽いのだ。
実感を伴わないからだ。
なぜならそこには「ネット」と「現実」が違うという暗黙の前提があるからだ。
ここから細田守は丁寧に丁寧に劇場内に『実感』をしみこませていく。
ネットで管理されている社会を愉快犯がイタズラして回る様子を、大家族の親父たちが「仕事が忙しくて帰れない」という形でもって見せることで。
イタズラだとわかっていても「いかなければならない」職場の人たち。
劇場にはまだ笑いがある。
しかし、ネットワークが現実の世界と地続きであると誰もが理解し始める。
単なるイタズラ。
黒電話、古いアルバム、黄ばんだ手紙。社会とつながりのある古い老人。
社会の人と人のつながりを暖かく感じる。
そして、ひとまずの小休止を経て、大きな喪失が胸を打つ。
ここにきてやっと劇場内にも、『仮想空間』と『現実空間』とは表裏一体であり、地続きであり、
そのどちらもが紛れもない『現実』なのだという『実感』が浸透する。
大家族の誰もがそれぞれの立場で行動し、そして仮想世界の住人が助けになる。
細田守は、子供にしか見えない世界や、魔女の世界を通過して、青春を描ききり、最後にデジタルとリアルをきれいに繋いで見せた。
現実とはそこにあり、誕生があり喪失がありそしてまた誕生がある。
成長があり老いがあり、後悔も希望もある。
仮想世界とは人と人がつながるための単なるツールであって、またそれは黒電話となんら変わることは無い。
その先には生きた人がいて、生きた人間が社会を築き上げている。
「ここではないどこか遠い世界」から、「いままさにここにある世界」へと細田守は帰ってきた。
宮崎駿がついに彼岸へと続くトンネルから帰ってこない物語を描いたのと対照的に。
考えすぎのような気もするな
雨と雪みにいきてえな