セリフまわしの価値観

 何度か書いたことがあるが、おれは日本のアニメが嫌いである。理由はいくつかあるが、極端な抑揚をつけるセリフまわしが不自然で嫌だということがひとつだ。少し前に「スラムダンク」の映画版を見てみたが、やはりセリフまわしの変な癖が耳について、途中で見るのをやめてしまった。

 昨日、成瀬巳喜男監督の映画「浮雲」を見た。1955年の映画である。

 

 

 アフレコを多用しているらしく、口と声がほんの少しだがずれているところがあった。ずれていることは別によい。ただ気づいたというだけである。

 アフレコだなあ、と思いながら見ていたのだが、アニメに見られるような変な抑揚はなく、ごく自然である。見ながら(聴きながら)、どうしてアニメはあんな変な抑揚をつけるのだろうか、とちょっと考えた。

 ひとつには絵が単調だから(動きがあるとしても実写のいろんなものが変化する情報量にはかなわない)、それを少しでもカバーするように声でカバーしているのかもしれない。

 しかし、それよりもアニメ独特の価値観、文化みたいなものにしたがっているというほうが大きいようにも思う。アニメの世界で生きる人たちはああいう極端な抑揚が当たり前になっていて、むしろ、いろんな作品を見る(聞く)うちに抑揚の付け方に独特の癖が育っていったのではないか。

 極端な抑揚をつけるという点では、たとえば、歌舞伎なんかもそうだ。歴代の歌舞伎役者たちのセリフの抑揚が受け継がれ、そのなかでこういう抑揚はいい、こういう抑揚は悪いという一種の価値観が育っていったのだと思う。歌舞伎役者たちは前の世代のセリフまわしをまね、あれは下手だ、あそこはこうしたほうがいいなどと言われながら、口調をつくりあげていくのだろう。

 日本のアニメも同じで、いろいろなセリフまわしのなかで、あれはいい、これは悪いという価値観、文化みたいなものが育ってきているのだと思う。

 ただ、おれは同じ極端歌舞伎のセリフまわしは別におかしいとは思わないが、アニメのセリフまわしは不自然に思えてしょうがない。まあ、好き嫌いと言われればそれまでだが。