にしむら‐てんしゅう〔‐テンシウ〕【西村天囚】
西村天囚
小説家・ジャーナリスト。大隈種子島生。名は時彦。字は子駿、別号に硯園等。東大中退。小説『屑屋の籠』を発表したのち、大阪朝日新聞社に入社。日清戦争の従軍記者などをつとめる。在職中より京都帝大講師。他の著書に『日本宋学史』『学会の偉人』等。大正13年(1924)歿、60才。
西村天囚
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西村 天囚(にしむら てんしゅう[1]、1865年9月12日(慶応元年7月23日) - 1924年(大正13年)7月29日)は、日本のジャーナリスト。本名は時彦(ときつね)[1]、で、天囚は号。他に碩園(せきえん)とも名乗った。字は子駿。大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親である[1]。
江戸時代に大坂につくられた学問所「懐徳堂」の復興にも尽力し、漢籍など天囚の旧蔵所が「碩園記念文庫」として保存されている[1]。
祖先に西村織部丞時貫がいる。
略歴
- 慶応元年(1865年)7月23日 大隅国種子島西之表(現在の鹿児島県西之表市)[1]に生まれる。
- 慶応3年(1867年)7月9日 父を失う。
- 明治13年(1880年) 東京帝国大学古典講習科に入学[1]。重野安繹・島田篁村に学ぶ。
- 明治20年(1887年) 退学。
- 明治22年(1889年) 『大阪公論』の記者となる。
- 明治23年(1890年) 『大阪朝日新聞』の記者となる[1]。
- 明治26年(1893年) 福島安正のシベリア単騎横断をウラジオストクで出迎え取材する。
- 明治27年(1894年) 日清戦争を従軍記者として取材[1]。
- 明治29年(1896年) 『東京朝日新聞』編集局主宰。
- 明治35年(1902年) 大阪朝日新聞社に戻る。
- 明治37年(1904年) 『大阪朝日新聞』に「天声人語」初掲載[1]。
- 明治43年(1910年) 「懐徳堂記念会」を立ち上げ、復興や顕彰活動に取り組む[1]。春より大型客船で世界一周旅行を行い『欧米遊覧記』[2]を刊行
- 大正3年(1914年) 編集顧問になる。
- 大正5年(1916年)9月 京都帝国大学講師[1]。
- 大正8年(1919年)5月 大阪朝日新聞社を退社[1]。
- 大正9年(1920年)5月 文学博士。
- 大正9年(1920年)6月 島津家臨時編輯所編纂長。
- 大正10年(1921年)8月 宮内省御用掛(勅任待遇)となり、東京に移住[1]。
- 大正12年(1923年)9月 正五位。
- 大正13年(1924年)1月 御講書控。
- 大正13年(1924年)7月29日 従四位。
- 大正13年(1924年)7月30日 死去。享年60。勲四等瑞宝章。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m シンポ「天声人語の名づけ親 西村天囚が見た近代日本」血のネットワーク開拓『朝日新聞』朝刊2018年12月30にち12面(2022年5月12日閲覧)
- ^ 湯浅邦弘『世界は縮まれり 西村天囚『欧米遊覧記』を読む』(KADOKAWA、2022年)
参考文献
西村天囚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 13:54 UTC 版)
西村天囚が九州の儒者を訪ね歩いた道中談をまとめた興味深い著作『九州巡礼 1907年(明治40年)』をもとに、校注を丁寧に加えて編集した著書『九州の儒者たちー儒学の系譜を訪ねて』に、亀井家にて書画を見た際の印象が、以下の通り記載されている。 亀井昭陽の女(むすめ)にして、「九州第一梅、今夜為君開」の詩に名高き少琹女史は、其の夫雷首山人と共に、初め前原に住し、後、今宿に移り住み…(中略)…(少琹故宅を訪れ書画を見せてもらい、その印象を)細楷の字法正しく、筆力枯勁にして脂粉の気なし。(後略) —著者 西村天囚、校注 菰口治、『九州の儒者たちー儒学の系譜を訪ねて』海鳥社、1991年、46-48 頁
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