留山・留木制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:17 UTC 版)
留山(とめやま)は森林保全のため入山・伐採などが領主により禁じられた山のことで、江戸時代の林野制度のひとつであり、留木は伐採を禁じられた樹木のことで停止木(ちょうじぼく)とも言う。「木一本に首一つ」は禁伐木を一本伐っただけでも打ち首になるの例えで、禁を犯したら厳罰に処せられることを意味した。 寛延2年(1749年)から明治2年まで木曽五木の伐採を取り締まるため馬籠峠に白木改番所が設置された。 木曽全郡において、住民の立入を禁じた留山や巣山(鷹狩の鷹繁殖のための立入禁止山)は59か所を数えたが、その面積は木曽山林全体のわずか7%ほどであった。その他の山は「明山(あけやま)」と呼ばれる開放林で、住民は自由に立ち入ることができ、日常生活に必要な家作木(建築用材)や薪炭材・柴草・干草、食糧の補いにする木の実などを採取し利用することが認められており、停止木である6木(ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスヒ、コウヤマキ、ケヤキ)以外の木材なら誰でも自由に利用することができた。そのため、厳しい留山・留木制度があったとはいえ、明山の雑木による木材加工などの収入により住民の生活は安定し、また、その雑木伐採により、木曽五木の生育のための障害木が除かれることになり、これが一種の整理伐作業となって結果的に木曽美林を生み出す要因のひとつになった。 江戸幕府が倒れ、木曽住民は山林開放と停止木廃止を求めたが、明治政府は藩有林をすべて国有林とし、全国一律に国有林への立入を禁じたため、それまで許されていた明山への立入まで禁止となった。とくに木曽の山林は御料林(皇室財産の山林)の指定を受けたため、一切の立入が厳しく禁止された。そのため、山林資源活用に頼って生きてきた木曽の住民の生活は一気に困窮し、住民による請願運動が繰り広げられた。長年の交渉の結果、1905年(明治38年)になって、政府は24年間にわたって毎年1万円の御下賜金(天皇が与える金銭)を下付することで紛争を解決した。島崎藤村は、木曽御料林事件、木曽山林事件と通称されるこれらの一件を小説『夜明け前』で触れているが、請願した主人公が懲罰として戸長免職となるなどは史実と異なると言われる。
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