浅井氏家臣時代
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戦国大名浅井氏の台頭により京極氏が衰退すると、同じく京極氏根本被官であった浅井氏に従う。『寛政重修諸家譜』には浅井亮政の生母に赤尾教政女(むすめ)とあり、『浅井三代記』では赤尾教政は浅井亮政の兄とされている。なお、『赤尾家譜』によると浅井氏庶流である浅井賢政の長子、教政(二男に亮政)が母方の赤尾新次郎の跡を継いだと記されている。戦国大名浅井氏内での赤尾氏の重要性を考えると、浅井氏と赤尾氏は何らかの血縁があったことがわかる。[要出典] 赤尾清綱は初め孫三郎、後に美作守と称す。諱を清綱とする。戦国大名浅井氏初代浅井亮政の頃から浅井家に仕え、浅井家の宿老として浅井氏3代に仕えた。小谷城内の防衛の要所、本丸横下に赤尾屋敷と呼ばれる袖曲輪を持ち、そこに在番していた。通常、家臣は城下に屋敷を持ちそこを居館とするものだが、城内に自身名の付いた曲輪を任せられていたことからも、浅井氏にとって赤尾氏は重要な存在であった。[要出典] 『信長公記』(第六巻阿閉謀叛の事)では小谷城落城で、「浅井備前(長政)・赤生(赤尾)美作生害させ」の記述があり、赤尾屋敷と浅井長政が最後まで命運を共にした。なお、清綱の子供らの命は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて織田信長直々に助命したといわれている。 浅井氏の滅亡により、赤尾氏も本貫地の赤尾を追われ、新たな主家の地に移り住むようになる。
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浅井氏家臣時代
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大永3年(1523年)、磯野員宗の子として誕生。磯野氏は代々京極氏の家臣であったが、浅井亮政の台頭に屈する形で浅井氏の配下に加わる。員昌の父・員宗は磯野氏の一族筋から養子として佐和山城を本拠に持つ磯野員吉に迎えられている。主家筋の磯野山城を本拠に持つ磯野氏は西へ下り、筑前国高祖城主・原田氏家臣となり、博多で転職し、鋳造業を営んだ。 父の死後、叔父・員清が家督を継ぎ、その跡を員昌が継いだ。員昌は佐和山城を本拠とし、武勇に長けたことから対六角氏戦で度々武功を重ね、合戦では浅井軍団の先鋒を任されるようになる。大野木国重、野村定元、三田村秀俊らと共に浅井四翼と謳われた。 元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いでは、織田軍に深く斬り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫ったが、後に控えていた織田側の稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就らが駆け付け、その後、朝倉軍を撃破した徳川家康軍の増援もあり、浅井側は総崩れとなり敗退した。この員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残る(浅井三代記)。
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