原田氏
原田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:44 UTC 版)
美作菅氏を称する原田氏は諸流が存在する。 菅家党の本拠勝田郡を離れた美作国久米郡稲岡庄原田を領有した原田氏がいる。平忠常の子忠高が肥前原田に住んで原田氏となり、保安四年(1123年)、孫の興方が藤原仲時が高階師春を殺したことに関係して美作に流されて葛虫庄(岡山県久米郡美咲町原田)を与えられ、狐山に稲荷山城を築いて住して翌保安5年(1124年)葛虫庄を原田庄と改めた。この平氏系原田氏が四代忠廉(忠門)の代に姓を菅原に改めたと言う。美作菅家系図では忠門は三穂太郎満佐の子となっている。この原田氏は天文元年に尼子氏に属して周囲に勢力を拡張するも天文12年に本拠稲荷山城を落とされ没落。その後、15代三河守貞佐の元で復活して、主に宇喜多方として活動した。しかし、朝鮮の役の際、陣中騒乱の責任を取らされ蟄居。武家としての活動は終わった。 一族が誕生寺の住職となり、世襲している。この久米郡原田氏は美作菅家党とは別勢力の武士団で、活動は異なる。 これとは別に、もっと古い代に美作菅氏兼知より原田氏が出ており、兼知の子右馬允知貞は播磨長田荘に居住したが、承久の乱により討死し、その子右馬太郎知明は勝田郡真加部に移って菅家党として活動した。正慶2年(1333年)4月、官軍として京都四条猪熊まで攻め入り武田氏らと闘った際、原田彦三郎佐秀が有元佐弘・佐光・佐吉、福光佐長、植月重佐、鷹取種佐らと共に討死したことが見えている。天正7年に宇喜多氏が後藤氏を三星城に攻めた際、菅家党と共に籠城。落城後は、鷹取氏とともに宇喜多方として有元氏攻撃を先導した。 勝央町畑谷に原田の地名が残っていることが指摘されている。 後者の家系から加賀前田氏が派生している。
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