武蔵野市長とは? わかりやすく解説

武蔵野市長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 02:44 UTC 版)

後藤喜八郎」の記事における「武蔵野市長」の解説

1963年昭和38年4月行われた武蔵野市長選挙社会党公認立候補し27,222票を獲得初代市長4期15年5か月わたって務めた現職荒井源吉無所属)を6,000近くの差で破り初当選荒井の後を受け、翌5月第2代武蔵野市長に就任以後3度再選を果たす。うち1967年昭和42年)と1975年昭和50年)は無投票当選であった市長就任後は「市民自治」と「平和な緑と教育のまち」をスローガン掲げた。「市民自治」のスローガン1971年昭和46年)に策定され第1期武蔵野市基本構想長期計画コミュニティ構想策定の際、市民対象としたヒアリング実施という形で盛り込まれ、「武蔵野方式」として知られる。 「太陽のように明るく生きよう」をモットーとし「太陽市長」と呼ばれた吉祥寺駅周辺再開発事業後述)や武蔵境駅南口の開発といった都市開発注力した。一方で都市化代償として減少する緑を取り戻そうと「緑化市民委員会」を発足緑化推進本部設置、「緑の憲章制定等の対策当たったまた、当時急増するマンションによる日照侵害等の苦情が市に大きく寄せられたことを受け、全国初の中高マンション規制として「宅地開発に関する指導要綱」を制定した。しかし、住民から要綱運用巡って訴訟起こされ後藤水道法違反刑事告訴される事態となった。この問題後藤退任後の1989年平成元年)に決着し建築基準法改正されるきっかけとなった後藤市議会議員時代に「税金二重取り」と批判してきた下水道受益者負担制度については、市長就任後隣接する三鷹市導入例見て制度効果があるとして自らの主張変更し1970年昭和45年)より制度実施下水道事業大幅に進捗させ、後藤退任後の1985年昭和60年)に市全域下水道事業完成した。 このほかにも、市内小中学校の全鉄筋化、グリーンパーク整備公園化(のちに武蔵野中央公園となる)、富山県利賀村との姉妹都市協定による「第2のふるさと」づくり、児童扶養手当介護派遣事業全国最初導入、などに取り組んだ1979年昭和54年4月4期16年務めた武蔵野市長を退任。この在任期間は第4代市長土屋正忠6期22年4ヶ月在任1983年昭和58年) - 2005年平成17年))と更新されるまで最長記録だった。

※この「武蔵野市長」の解説は、「後藤喜八郎」の解説の一部です。
「武蔵野市長」を含む「後藤喜八郎」の記事については、「後藤喜八郎」の概要を参照ください。

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