作品と事績
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「カール・アマデウス・ハルトマン」の記事における「作品と事績」の解説
ハルトマンの最も成熟した、最も名高い作品、すなわち8つの交響曲は、いずれも戦後になって完成された。恐らく最も有名なのは、「レクィエムの試み Versuch eines Requiems 」と題された「交響曲 第1番」であろう。この曲は元来、ウォルト・ホイットマンの詩集からの抜粋に基づき、アルト独唱と管弦楽のためのカンタータとして1936年に構想された。この作品は、やがて交響的断章「我らが日常 Unser Leben: Symphonisches Fragment 」として知られるようになり、芸術家やリベラル志向の個人にとってナチ体制下初期のほぼ惨憺たる状況についてのコメントとして企図された。第三帝国が第二次世界大戦に敗れてから、この体制の真の犠牲者がはっきりすると、カンタータは交響的断章「レクィエムの試み」に改名され、幾万ものホロコーストの犠牲者の追悼作品と位置づけられた。改訂は1954年から1955年に進められ、1956年に最初の交響曲として出版された。 ハルトマンの作曲様式は折衷的である。初期作品においてグスタフ・マーラーやアントン・ブルックナーの影響が歴然としており、対位法の手法はマックス・レーガーに感化されていた。後に、パウル・ヒンデミットや中期のイーゴリ・ストラヴィンスキーら、新古典主義音楽の足跡を辿るようになる。アントン・ヴェーベルンに師事したにもかかわらず、新ウィーン楽派の作曲家では、アルノルト・シェーンベルクとアルバン・ベルクの二人に、より深く啓発されていると自覚していた。 第2次世界大戦後のハルトマンは、ミュンヘンの演奏会シリーズ「ムジカ・ヴィヴァ」の統率者としてドイツ楽壇の重鎮となった。旧師ハースの後を継いで、ドナウエッシンゲン音楽祭の運営にも関与している。ハルトマンは西ドイツ国民に、ナチスの文化政策によって禁じられた現代音楽の存在へといま一度ふり返らせたのだった。
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