顕密体制論理解のために

日本中世における「社会的意識諸形態」を理解するための概念が顕密体制論である。「社会的意識諸形態」とは、イデオロギーと記せば分かりやすいだろう。イデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためのものである。
そのことを頭において本郷和人氏の顕密体制論に対する見解をみてみよう。

仏教はそもそも何のためにあるのだろうか。国を鎮護するため?天皇や貴族に日々の安寧をもたらすため?

非常にイデオロギーとしての顕密仏教の特質を押さえた議論である。中世の「実在(ザイン)」においてはまさにそうなのだ。「ザイン」に注目する限り、仏教は鎮護国家のために存在するのであり、王法と仏法は相依相即なのである。そして概念としてもイデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためにある。支配階級との関係で言えば、それが顕密仏教の正統である。顕密仏教の正統に位置づけられるのが、国家鎮護と王法仏法相依相即をレゾンデートルとする顕密、つまり南都六宗の顕教と真言・天台の密教の合計八宗である。
それに対してそれを改革しようとする立場が出てくる。いわゆる改革派である。法然は易行・衆生救済などを唱えて顕密仏教を改革しようとした。そのような改革の動きはいわゆる「新仏教」と言われる浄土宗・浄土真宗・時宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗だけではなく、律宗の忍性や叡尊、華厳宗の明恵も改革派として評価されるべきである。これが顕密体制論の眼目である。従って顕密仏教の正統だけを議論するべきである、という論ではない。
改革派の中でも特に顕密体制に果敢に抵抗した宗派がある。それを黒田は異端派と考えた。黒田は異端の実例として親鸞をあげる。

顕密という立場からは、たとえば親鸞聖人のように真言陀羅尼や呪いや国王の権威を認めないというのは、明らかに異端です。(中略)顕密体制という国家・社会全体の客観的な関係のなかでの位置づけとして、定義しているのです。そのことをお分かりいただかないと、親鸞聖人が置かれていた大変に苦難の多い立場について正しく理解していただくことはできないのです。(中略)
親鸞の立場について性格に説明しつくすことは、私にはとうていできないとおもいますが、私が最も大切だとおもいますことの一つは、(中略)体制的権威による救済を否定したことであるといえるかと思います。(中略)
顕密の人たちは、この宗派は国家から公認されている、勅許を得ている、天皇のために祈れ、伊勢神宮をはじめ国々村々に鎮座する神々を崇敬せよと、繰り返し説いていました。しかし、親鸞は『教行信証』の化身土巻にありますように、真の仏教者、念仏者というものは本当の救いではなく、そういうものに期待してはいけないということでしょう。『親鸞聖人御消息集』には、念仏者は強縁によって仏教をひろめるということはないのだという言葉もあります。(中略)
心のなかからの本当の信仰でなく、権力に頭を下げておかないと具合が悪かろうというのでは正しい仏教ではない。体制的権威によって往生ができるというようなことはあり得ない、というのが親鸞の信念だと私はおもうのです。(「歴史上の真宗」『黒田俊雄著作集 第四巻 神国思想と専修念仏』374〜375ページ)

こういう黒田の記述を読むと、私には本郷氏の次の黒田批判にはにわかには首肯しがたい。

仏の教えとは、人々の心を救うものではないのか。人はいかなる階層に属していようが、喜び笑い、一方で懊悩し煩悶する。その苦しみや悩みを抱きとってくれるのが仏であり神ではないのか。
そうした幼稚な命題をいまだに後生大事にかかえている私には「顕密体制論」が分からない。というよりは正直に言おう、好きになれない。京都周辺の院家で豪奢な生活を送る院主たち、教典に埋もれて学究的な修行に励み、現実を直視しようとしない学僧たち。門跡と有力院主は中央の仏教界を構築し、王権にこそ奉仕する。王権に癒着し、王権の権威の生成と維持に助力し、王権力とパラレルな法権力を構成する。(中略)
それが宗教の本質なのか。慈愛を重んじる仏教の真の姿だというのか。まさに「顕密体制論」はそう説くのであるが、私にはそうは思えない。思いたくないのだ。(『人物を読む 日本中世史』63〜64ページ)

「顕密体制論」が中世仏教の本質のザインを分析したものであることはここでは捨象されている。本郷氏は徹底して「当為(ゾルレン)」の立場から顕密体制論を批判する。しかし権門体制を支えた顕密仏教の正統、つまり顕密体制はザインとして中世国家のスタートに位置しているのである。
本郷氏は『武士から王へ』においても顕密体制論を次のように否定する。

易しい仏教と禅宗は、顕密の統制から大きく外れていく。これこそ、中世において「顕密体制」が成立し得ない何よりの証左ではないだろうか。広く民衆に浸透する「易しい教え」、それに全国を網羅する「幕府の宗派」。両者は独自の方向性を有し、従来の「朝廷・幕府・寺院」の関係を補完し安定させるものではなく、発展的に解消し、拡散していくものであった。この意味でも、やはり中世では「権門体制論」自体が成立しない、私にはそう思えてならない。(『武士から王へ』195ページ)

ここで本郷氏が挙げている「易しい仏教」は黒田のいう「改革派」「異端派」ですでに論じられていることであり、「禅宗」も「改革派」としてすでに位置づけられている。
本郷氏は顕密体制論をスタティックなものとして想定し、その変動を論じることで権門体制論・顕密体制論を批判しているように思われる。しかし権門体制論も顕密体制論も弁証法的唯物論の立場に立つ以上、歴史的展開をあくまでも動的なものとして把握するための概念であり、前提なのである。本郷氏の黒田批判はわら人形論法であるように思われて仕方がない。
黒田自身の展開過程をみていこう。

第一に、顕密体制は、正統的地位の確立および権力との結合によって、十一世紀段階からすでに内部矛盾と退廃をはらんでいた。それは諸大寺社の権門的世俗支配と寺院大衆=僧兵の蜂起となって現れていた。これは次の段階以後いっそう退廃を深めながら中世末まで存続する。
第二に、正統的仏教に対して、異端=改革運動がつぎつぎに発生し、展開する。これは、鎌倉時代の新仏教諸宗派に激烈な形で現われるが、それ以前にもそれ以後にもつねに連続して現われている。
第三に、異端=改革運動に対して正統派たる顕密体制のなかに「反動」的な対応が起こる。これには復古的な改革運動と、教義の再編によってかえって低俗化するばあいとがある、前者はさきの第二の改革運動と区別し難い性格をもつが、南都仏教の復興はそういう性格をもち、後者は叡山における後期の口伝教学や神道説・神国思想にみることができる。禅宗は第二の系列から出ながら、顕密体制のための代位・補強の役割を果たす。
第四に、最後に権門の権威の社会的必然による失墜と正統的宗教の勢力失墜が来る。中世末期の一向一揆がその段階の矛盾の激発形態として現われる。(「中世における顕密体制の展開」『黒田俊雄著作集 第二巻 顕密体制論』110ページ)

特に黒田が着目したのが神国思想との関係である。黒田は神道を顕密体制の一翼と捉え、神国思想を通じて中世の被支配階級を支配するためのイデオロギーとして機能すると考えた。神国思想への対応を通じて顕密体制に対する異端となり得るのである、「神祇不拝」に黒田が注目する所以である。その中で黒田は真宗に注目する。
最後に黒田の顕密体制論に対する批判として佐々木馨氏の禅密体制論を挙げておく。
佐々木氏は黒田が鎌倉幕府も朝廷と同じ体制的仏教に依拠していた、という考えを批判する。武家的体制仏教はむしろ禅宗と寺門派(三井寺)の密教であり、山門派(延暦寺)の密教、つまり公家的体制仏教とは異なることを指摘している。日蓮と北条時頼の争いを京都の体制仏教の一部を構成する日蓮と、鎌倉の体制仏教を構築した北条時頼との違いに求めるのである。さらには浄土門(佐々木氏は「宗」という言い方を批判する)の鎮西義も鎌倉幕府では体制的仏教の一翼を担う、と考える。