2014-05-01から1ヶ月間の記事一覧

足利義量の評定始(?)

『後鑑』足利義量将軍記をみていると、「花営三代記」を引いて「御評定始」と綱文が立ててある。「有御評定始。管領出仕。頭人三人出仕。摂津左馬助満親。波多野因幡入道元昌。問注所刑部少輔康雄。」ということで、これはさすがに「義量を消せ」と思ってい…

足利義量発給文書の復元

『後鑑』所収の足利義量発給御内書(?)には手が加えられている蓋然性が高い。 立像堂百座祈祷之巻数到来。目出度候。彌可被致武運長久精誠之状如件 応永卅年十二月廿八日 義量御判 本国寺院主上人御房 前回書いたことだが、このような巻数お礼のような時限的…

足利義量発給文書

『後鑑』を見ていると一つだけ足利義量が発給したことが明らかな文書がある。 立像堂百座祈祷之巻数到来。目出度候。彌可被致武運長久精誠之状如件 応永卅年十二月廿八日 義量御判 本国寺院主上人御房 引っかかる点が二つ。まず「義量御判」とあるが、実際に…

応永三十年五月七日付将軍家御教書

本文 東大寺八幡宮領摂津国兵庫関努代官所料事。先度被免除之処、自地頭領家、重覃其責云々。所詮向後於寺家直務之時者、停止彼所料、全領知、御願以下同島修固等之由、所被仰下也。仍執達如件。 応永三十年五月七日 沙弥判 当寺衆徒中 これはしばしば「室町…

網走の応永板碑に関係するかもしれないこと5

網走の板碑だが、それを立てた人物、勢力の姿はなかなか見えてこない。 それを考えるために館主の中で渡道の経緯が明確な人物を挙げると、足利持氏関係の人間が目に付く。結城氏の乱に関与したとしか考えられない村上政儀や相原政胤、享徳の乱との関わりがあ…

網走の応永板碑に関係するかもしれないこと4

題名を「応永板碑に関係しないだろうこと」にした方がいいのではないか、と思うが、引き続き北海道に渡った武士団について見ていく。今回は武田信広。信広と言えば松前藩のクロニクルである『新羅之記録』によれば若狭武田氏なのだが、それを信じない人は江…

網走の応永板碑に関係するかもしれないこと3

網走の応永板碑との関係がどんどんなくなっているような気がするが、次は村上雅則、もとい村上政儀。「ネットde真実」ばりにネット上の情報を拾うと、政儀は信濃源氏の村上氏で、1440年3月の戦乱で信濃を追い出され、秋田に向かったが、暴風によって厚沢部ま…

網走の応永板碑に関係するかもしれないこと2

禅秀の乱に関わったであろう南武蔵の武士団だが、どういう経緯で北海道も網走に向かったのだろうか。ラッコの皮や鷲の羽を求めた野心的な集団なのか、本領を追われて失意の没落と流浪の果てなのか。それを考える一つの材料を提示しておきたい。 以前にも取り…

網走市出土の板碑に関連するかもしれないこと

網走市で出土した「応永の板碑」について。 渡辺美彦氏「網走の『応永』板碑のルーツを追う」(『生産の考古学?』同成社、2008)によれば、「応永廿四」の年記があり、多摩川下流域に分布するタイプであるとのことだ。詳しくは「http://d.hatena.ne.jp/arch74…