入力ばかりだと

面白いものはないか、楽しいものはないか、と大勢が自分の外部を探している。自分の内部を探す人は少ない。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2008/03/post_1747.php

森博嗣氏による。
素直に賛同できる文章。
(以下は、勢いで書いてしまった結城の文章)
大勢かどうかは知らないけれど、自分の外部に面白さを探す人がいることは知っている。
結城は多くの場合、自分の内部に面白さを探している。外からの刺激は最初のトリガーであって、あとはずっと自分で考えている。
外に書かれたものを読むときでも、自分で本当に納得して読もうとしているから、結局は自分の内部の構造に興味があるのだ。自分の中の宇宙探査をやっているようなものだ。
文章を書く、プログラムを書くというのはまさにそう。外から刺激をちょっと受けて「自分でも、こういうの書いてみようか、作ってみようか」と思う。そしてそれを実行する。うまくいったりいかなかったり、でも楽しい。
この間、初音ミクの記事を日経ソフトウエアに書いた。最初はどうかなと思った。だって、初音ミクなんていう旬なものはたくさんの「プロ」な人が取り組んでいる。面白いテクニックもWebで読める(よね?よく知らないけど)。それなのに、そこにおっとり刀で出かけていって「初音ミクの使い方」なんて記事を書いてもなあと思った。
でも、編集者さんのディレクションがよかったのか、音楽の素人としての視点でそれなりにまとまった記事が書けたと思っている。書いていて楽しかった。そう、楽しかった。それは、森博嗣氏がいう「入力」じゃなかったからだと思う。どこかにあるものを受け取るだけではなく、自分なりの工夫をし、自分なりの発見をし、自分なりの形にまとめる。自分にはこういうことはできないけれど、こういうことならできる。そんなふうにあれこれ考えてソフトをいじり、文章をひねり、図を描く。そんな「自分なりの」創作活動が楽しくないわけがない。おまけに(といっては失礼ですが)それでお金までもらえる。楽しい。
聞きようによっては自慢話の自分語りに聞こえる話はさておき、それでは、どうして自分の外部に面白いものを求めようとする人が多いのだろうか。
全員がそうだというつもりはないけれど、かなりの部分が「習慣」だと思う。情報を受け取る習慣はできていても、「自分なりの」処理をする習慣がついていないという意味。(他の人が何と言おうと)「私はこう感じる」「私はこう思う」という姿勢・態度。それは習慣が大きいと思うんですが。
もちろん、そればかりでは単に独善的になってしまう。他の人が何と言おうと自分の考えを曲げないなら、入力はまったく不要になりますものね。
話がそれた。
どうしたら、自分で考える習慣が身につくだろうか。…はい、ここがチャンス。まず最初に、「どうしたら自分で考える習慣がつくだろうか」の答えを自分で考えるところからはじめればよいのではないだろうか。
答えがどこかにないと不安な人も多そうだ。はてなブックマークで「はてな村」の人々がどういう反応してるか調べてからでないと自分の意見を定められない人もいそうだ。たしかに、答えがどこかにないと不安だというのなら、生きることは確かに不安だろうと思う。
だって、私たち一人一人がどう生きるべきかに対する答えは、ぐぐっても見つからないからだ。