さいきん考えていること・その2

以前「批評」とか「感想」についてだらだらと書いていたことがあったけど(一応まだ未完です)、要するになにが言いたかったかというと

  • 1.なにか対象(小説とか、映画やマンガや美術や世相やなんやかや)に接したときになんらかの感想をもってしまうのは仕方がないよね
  • 2.その対象との距離のとり方やスタイルによって「感想」とよぶか「批評」とよぶか、あるいは「研究」といった方がいいのかわかれるけれど、それぞれの価値があるのでどれが上でどれが下というわけではないよね
  • 3.「○○についての批評」が○○に対して「上から目線」になってしまうのは原理的に仕方のないことなので、作者がカチンとくる気持ちはわかるけどあきらめたほうがよいよ
  • 4.感想や批評をいう方も、じっさいに口を開けてモノをいう以上、なるべく責任のとれることだけいうようにした方がよいよ

みたいな話です。


こんなことを書こうと思った動機はおもに4番めの主題にあって、ちょっと前に「お前それサバンナでも同じこと言えんの?」というクリシェがはやりましたが、つまりそういうことです。とくにインターネットのように原理的に世界中の人間がよむ可能性のある場所で発言する場合、読者がどこにいようが、誰であろうが、同じように胸をはってモノをいえるようでありたい、と思うわけです。あるいは、もし特定の人にしか聞かれたくないような発言(だれかの悪口とか)の場合は、そういう場所でじゅうぶん注意して言う。なおかつその発言はそのようにオープンにできない類の、後ろめたい発言だということに自覚的でなければならない。


こういうふうに書いてしまうとまあ当たり前というか、それこそ「お前なにをぐだぐだ言ってんだ」というかんじになってしまうのだけど、でも、よくある炎上騒ぎって「一部の仲間にだけ言うつもりで全世界に発表してしまった」というケースが大部分なので、いつも注意深くあるのにこしたことはないと思うのです。


いや、「注意深く」というか…個人的には、ちょっと大げさなのだけど「モノを言うときの倫理」の問題なのだと考えている。「いま自分がしゃべったことで、誰かが傷つくかもしれない」という可能性に、つねに意識的であること。もし誰かが傷つくかもしれない内容であれば、傷つけるという覚悟をもってモノを言うということ。
じゃあ覚悟や責任があれば人を傷つけてもいいのかって話になっちゃいますが、具体的には、反論されたらしっかり受けとめる、こっちがまちがってたら逃げたりしないで潔く謝る、というような覚悟だよということです。なんか腰砕けな結論ですけど。


そういうわけで、たとえばはてブなんかで「これはひどい」とか「死ねばいいのに」なんていうタグがあったりしますが、自分はほとんど使わないし、使ったとしても個人ではなく役所とか企業とか、こっちがたちうちできないような巨大なもの限定なのです(のはずです)。


ところがブックマーカーのなかには、まあそういう芸風なのだろうけど悪口雑言のかぎりをつくす人がいたりして、すげえなあ、もし刺されたらどうすんだろうと思う。べつに自分の倫理をひとに押しつけるつもりはないので、それがヨクナイとは言いません。でもやっぱり自分の趣味ではないしあんまりお近づきになりたいとも思わない。
という話でした。あれ? もうちょっと先に何か言いたいことがあったようなきがするんだけど……(次号に続く)