『1Q84』について、その3

 2巻の巻末に「本作品には、1984年当時にはなかった語句も使われています。」という断り書きがついている。
 おもうに、天吾の父親が「認知症」だと書かれているのを指しているのじゃないだろうか。認知症という言葉ができるまでは「痴呆症」とか「ボケ」とか言われていたわけで、それらのコトバがたとえばPC的な理由で使えないために、やむなく当時まだ存在しなかった語が採用されるハメになったのではないかと。
 ところがネットをちょっと検索してみると、アレもコレもという感じで、1984年当時に一般的でなかった言葉がいろいろ推測されていて面白かった。曰く、「アルツハイマー病」(一部を除いてこれを含む書名の本が出版されるのは1987年以降)「インサイダー取引」(映画「ウォール街」の日本公開は1988年)「立ち上げる」(パソコンが普及してから使われるようになった表現)「サヴァン」(映画「レインマン」の公開が1989年)云々々々。中には「ポケベル」もそうじゃないかと書いている人もいたけれど、1983年の『見栄講座―ミーハーのための その戦略と展開』に出てくるのを覚えているので、これはセーフじゃないかなあ。
 でもまあたしかに、こういう近過去を舞台にした作品のコトバの時代考証って結構厄介なものではある。「シネマハスラー」のポッドキャストを聞いていたら、『AlWAYS三丁目の夕日'64』で堤真一の「早っ」という台詞があるが、そういう言い方はダウンタウン以降だろう、という指摘がされていた。また『東京エイティーズ 1 (ビッグコミックス)』というマンガをちょっと見てみたら、80年代の大学生が「ちげーよ」なんて言っているのをみてあらあらと思ったこともある。
 言葉の時代考証問題とは、たんにある語がその時代にあったなかったというだけの話ではなく、作品に用いる言葉にたいする感受性の問題ではないだろうか。「早っ」とか「ちげえよ」とかあるいは「立ち上げる」などの例は、いかにも作者が普段つかっているコトバをそのまま考えなしに持ちこんだというふうにみえる。そういうデリカシーのなさは、慎重に組みたてられた作品世界に入ったヒビのようにも見え、ちょっとしたことでがらがらと崩れてしまいかねない予感さえすることでありますよ。