ウェブ1丁目図書館

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庶民に支えられ今日まで存続している東寺

京都の象徴的な建造物は、現代では京都タワーになりつつありますが、まだまだ観光客に人気があるのが東寺の五重塔です。

東から京都市内に新幹線で入ると見えませんが、西からだと五重塔を車窓から眺めることができます。

これぞまさに古都の風景。そう感じる人も多いことでしょう。

ところで、東寺はいつからあるのかと言うと、約1200年ほど前の平安時代初期からです。しかも、驚きなのが、創建されて現在まで、場所を変えることなく現在地にあり続けているのです。

歴史上の人物が見た景色を今も見れる

東寺は、794年の平安遷都と同じ時期に建設が開始され、823年ころまでには完成していたのではないかと推測されています。

位置は平安京の南、羅城門の東側です。西側にも東寺と同じ造りのお寺が建設され、こちらは西寺(さいじ)と呼ばれていました。この頃の仏教は鎮護国家を目的としていたので、東寺も西寺も王城鎮護を目的としていました。

今でも、東寺が創建当時と同じ場所にあるからこそ、現代人は、平安京の地理を知ることができるのですから、歴史的に非常に重要な建築物と言えます。また、創建から現在まで同じ場所にあり続けるということは、歴史上の人物が見た景色を今も東寺に行けば、見ることができるのです。

(写真提供:京都紅葉photo)

東寺の塔頭(たっちゅう)の宝菩提院の住職であった三浦俊良さんの著書「東寺の謎」には、以下の記述があります。

またここには、空海が完成させたわが国はじめての密教寺院がある。空海は十年ほど東寺に住んでいる。この地は空海の歩いた地でもある。
南北朝時代に足利尊氏が本陣をおいたのも東寺の境内だった。後醍醐天皇をはじめ、楠木正成、新田義貞も東寺を訪れた。
織田信長も豊臣秀吉も本陣をおいている。江戸時代には国学者の本居宣長も訪れている。
さらにいえば、現在の東寺とほぼ同じ姿を、都に住んでいた、あるいは都を訪れた歴史上の人物のほとんどが見ていただろうということである。そこには西行法師も平清盛や源頼朝も、徳川家康、徳川慶喜、近藤勇や坂本竜馬の姿もあっただろう。また江戸、京都、大阪を往来する多くの商人や旅人の姿もあっただろう。
(20~21ページ)

西寺は滅亡した

でも、東寺は1200年の間、常に順調だったわけではありません。何度も滅亡の危機があったのですが、常に再建され存続しつづけています。

最初の滅亡の危機は、平安京造営から百数十年経った頃でした。この頃になると、平将門や藤原純友が反乱を起こすなど、律令国家を揺るがす事件が頻発します。地方から難民が都に押し寄せ、治安が悪くなります。また、財政も悪化したことから、羅城門や西寺などの大型施設を維持するのも困難となっていました。

羅城門は倒壊、西寺は火災により多くの伽藍(がらん)を失い、残ったのは五重塔だけ。


律令国家が衰退すると、藤原氏が権勢を振るう摂関政治が始まります。これにより朝廷の財源も失われていき、ますます西寺は衰えていきます。そして、平安時代末期の二度の火災で平安京は事実上滅亡。そこには、朽ち果てた東寺の姿だけが残っていました。

しかし、荒廃した東寺の再興に動き出した一人の僧がいました。それは文覚(もんがく)です。文覚は、空海に帰依しており、空海ゆかりの東寺の再建を志します。そして、源頼朝、後白河法皇の協力により東寺を再興させました。

でも、西寺は律令国家の後ろ盾を失ってから誰も再建に乗り出そうとしなかったため、天福元年(1233年)に五重塔が焼失し滅亡しました。

弘法市の始まり

今でも、毎月21日に東寺の境内で催されているフリーマーケットの弘法市は、西寺が滅亡した天福元年に弘法大師空海の木造が東寺に安置されたことがきっかけで始まりました。

これまでの東寺は、時の権力者の庇護を受けて維持されていましたが、境内の西院不動堂(御影堂)に弘法大師像が安置されてから庶民たちの弘法大師信仰が盛んになります。

ここでは空海が住んでいたときのように、毎日朝昼晩の三回、粥食*1、飯食*2、燈燭などの給仕がおこなわれるようになる。これが現在も毎朝六時からおこなわれている生身供*3である。それとともに三月二十一日の午前四時から御影供*4がはじめられた。この日は空海が高野山で入定した日である。午前四時はまぶたを閉じた時期だった。
以来、御影供は、毎月二十一日におこなわれるようになり、弘法市に発展していく。
(290~291ページ)

庶民たちで賑わうようになった東寺の境内。

これこそが、東寺が現在も存続しつづけている理由なのです。

何度も戦乱に巻き込まれ炎上した東寺

しかし、それ以後も東寺は日本史上、何度も戦乱に巻き込まれています。

南北朝時代には、足利尊氏が東寺に本陣を置き、後醍醐天皇の軍と壮絶な戦いを繰り広げました。宮方の新田義貞、名和長年の軍勢の勢いは凄まじく、足利軍は苦戦を強いられ退却するほかありませんでした。

本陣が置かれた東寺の東大門から足利軍は次々と境内になだれ込み、最後の一人が境内に足を踏み入れたところで門は閉ざされます。その直後に幾筋もの矢が射こまれましたが、東大門は開くことはありませんでした。以後、東寺では東大門のことを不開門(あけずのもん)と呼んでいます。


1467年から11年間続いた応仁の乱では兵火に遭うことはありませんでしたが、その後に起こった山城国一揆の被害を受け、伽藍が炎上します。再建されるのに100年以上かかりましたが、1603年に豊臣秀頼によって復興が実現します。

その後も徳川家光が五重塔を寄進し、現在の東寺の姿を取り戻したのでした。

狸寺からの復興

近代に入ってからも、東寺は、廃仏毀釈、第二次世界大戦などの滅亡の危機が何度かありました。

それでも、今日まで存続できているのは、庶民の弘法大師信仰に支えられてきたからです。

戦時中、僧たちは、戦場に向かいましたし、軍需工場でも働いていました。当然、東寺は無住の寺となり、境内は雑草で覆われ、狸の住処となっていました。三浦さんが寝ている時にお腹の上に狸が乗っかってきたというのですから、その数は、かなりのものだったのでしょうね。

このような状況においても、弘法大師信仰は庶民のなかで脈々と息づいていた。それは御影堂で毎朝おこなわれている生身供だった。
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生身供では、参拝者は仏舎利が入った舎利袋をいただきます。この舎利袋は「お舎利さん」と呼ばれ、無病息災、家内安全、福徳円満、諸願成就のご利益があると伝えられています。

これは鎌倉時代からはじめられ、徐々に発展していった生身供の姿である。弘法大師信仰が人々の心をとらえていくにしたがって朝参りの人々も増え、豪雪にみまわれた朝も嵐の日も一日もかかすことなくつづけられている。
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世の中には、様々な宗教があります。しかし、その中には、怪しげなものもたくさんあります。

人々のよりどころ、特に庶民の心のよりどころとなるものが真の宗教なのではないでしょうか?

お金持ちや大企業から多額のお布施をもらって存続しているお寺よりも、庶民たちのわずかな賽銭が集まって続いていくお寺こそが、多くの人々を平和に導く宗教だと思います。

西寺が滅び、東寺が存続している理由は、まさにここにあるのでしょう。

*1:「しゅくじき」と読む。

*2:「おんじき」と読む。

*3:「しょうじんく」と読む。

*4:「みえいく」と読む。