明晰夢工房

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近代仏教学のつくりあげた「ブッダ神話」を解体しブッダの実像に迫る好著『ブッダという男』

 

 

19世紀以降、仏教研究は初期仏典を批判的に考察することで、「歴史のブッダ」を復元しようと努めてきた。瞬間移動や空中浮遊など、超常能力を用いる「神話のブッダ」にかわり、多くの仏教学の碩学によりさまざまなブッダ像が描かれてきた。だが本書によれば、それらのブッダ像もまた現代人の価値観が投影されたものだという。ブッダは平和主義者であったり、男女平等論者であったり、不可知論者であったといわれることがあるが、こうしたブッダ像は研究者が自分の願望をブッダに語らせたものであり、「新たな神話」だというのだ。本書はこうした「新たな神話」から離れ、初期仏典を虚心坦懐に読むことで、「ブッダという男」が何を説いたかを解きあかしていく。ここで見えてくるブッダ像は、現代人のイメージする理想の人格者とは異なる面も多い。

 

たとえば、第3章「ブッダは平和主義者だったのか」では、ブッダが征服行為について助言する仏典があることが指摘される。マガダ国の王がヴァッジ族を滅ぼそうとしていたとき、ブッダは「ヴァッジ族が団結しているかぎり、衰退はない」と述べたというのだ。この発言を受け、マガダ王はヴァッジ族へ外交戦や離間策を用いることを決意する。ブッダは戦争を止めることはなく、王を批判してもいない。殺生を禁じたブッダがなぜ戦争を批判しないのか。確かにブッダの生命観において殺生は悪なのだが、絶対に許されないわけではない。この章の解説によれば、五つの無間業(父・母・悟った人を殺すこと、僧団を分裂させること、ブッダの身体から出血させること)以外の悪業なら、多くの人を殺めても、本人の努力次第では報いを受けずにすむのだという。初期仏典では戦争の無益さが説かれることもあるが、ブッダが現代的な意味での平和主義者だったとはいえないようだ。

 

ブッダは男女平等主義者だった、とされることもある。確かにブッダは女性でも悟りを得ることができると認めた。だが仏教教団において女性は男性に従属する立場だったのであり、男女平等だったとはいえない。ブッダの女性観はどんなものだったか。第6章「ブッダは男女平等を主張したのか」ではさまざまな初期仏典を引用しているが、そこからみえてくる女性観は「女は男を堕落させるもの」だ。「托鉢修行者たちよ、女は歩いているときでさえ、男心を乗っ取ります」といった文言からは、女性は煩悩を増し、修行の妨げになる存在という考えが読みとれる。逆に、男性が女性の修行の妨げになると批判されることはない。古代インドにおいては、女性は男性と哲学的議論を交わせるとみなされる一方で、蔑視される存在だった。ブッダの女性観も古代インドの一般的なものと変わらない。男女同権という考えが存在しなかった古代インドを生きていた人物だけに、ブッダの女性観にも現代人が受け入れにくいものは確かにあった。

 

本書はただ「神話のブッダ」を批判し、現代人に受け入れにくいブッダ像を紹介しているわけではない。第三部「ブッダの先駆性」では仏教思想を簡潔に解説しているため、初期仏教の入門編として利用することができる。個人的には、第11章「無我の発見」が、仏教思想の核心である「無我」についての最もわかりやすい解説になっていると思った。バラモン教やジャイナ教では恒常不変の自己原理(アートマン)が存在すると説くが、仏教では個体存在は色・受・想・行・識の五要素の寄せ集めにすぎず、これを統括する自己原理の存在を認めない。行とは意志的作用のことだが、これが他の要素をコントロールしているとも考えない。

 

このように、精神活動が個体存在の構成要素であることを否定することなく、かといって肉体と精神活動が、自己原理の下に活動しているとみるのでもなく、それぞれが互いに影響し合いつつ独立して個体存在を構成しているとするのである。(p161)

 

バラモン教やジャイナ教とは違い、輪廻の主体になる自己原理や魂の存在を仏教では認めない。にもかかわらず輪廻を認めたところに仏教の独自性がある。著者によれば、仏教は個体存在のなかに精神的要素も含めたため、唯物論と明確に区別されることになった。

 

インド諸宗教において、輪廻の主体である恒常不変の自己原理を否定したのは、唯物論と仏教だけであった。唯物論者が、物質からのみ個体存在が構成されると説き、業法輪廻の存在を認めず、結果として道徳否定論者であったのに対し、ブッダは、個体存在が感受作用(受)や意志的作用(行)などの精神的要素も個体存在を構成していると説き、無我を説きながらも業法輪廻のなかに個体存在を位置づけることに成功した。これは他には見られない、ブッダの創見であると評価できる。(p173)

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