2007年 01月 15日
直感写撃
OLYMPUSが、<OM10>の上位機種である<OM20>を発売した際に、コピーに用いた文句です。作家の丸山健二氏をイメージキャラクターとして登用し、話題になりました(少なくともこの点は丸山文学のファンである私を喜ばせました)。
今なお大切に保存してあるカタログには、丸山氏が<Motor Drive1>付の<OM20>を携え登場します。TVのCMはもっと格好良かった記憶がありますが、氏は今よりも(当り前ですが)遥かに若く精悍です。
一方でカタログ自体の内容(宣伝文句)は、有体にいってしまうと、如何にも中途半端なカメラを「意識はプロフェッショナル」などと、ヘビーユーズにも耐える点を強調したコピーで謳い上げたもので、読んでいて笑ってしまうような代物です。
<OM20>自体のボディシェルは悪くないと思いましたが、私には全く無用のカメラであったし、一般的にも殆ど売れないままに消えていったと思います。
さて、今回は「実はそんな<OM20>を手に入れたけど、意外に可愛いヤツで、デヘヘ〜」なんてハナシでは決してなく、この言葉からイメージする「感じて写す」ということについての雑感であります。

24年ほど前に夢中で読み、覚えてもいた筈なのに、最近、読み直してハッとした文があります。藤原新也氏の『全東洋街道』でのことばです(以下、引用)。
私は中国の昔の禅用語に“瞬視”という言葉があるのを想い出した。
長くものごとを見つめていると、事象の真の姿は逆に隠れて見えなくなるから瞬時に見抜け、と言うことだ。
ここには既成の意味を取り払った無意識の状態で、外から、一瞬、眼に飛び込んでくるものを受容するなら、物事の本当の姿が見きわめられると言うことが言い表わされているのだと思う。
この禅用語は写真を撮る行ないによく似ていると言える。長々とものを見つめて撮った写真は優等生的で外面の形はよく写っているが、事物の魂の中まで光が届いていない。それと逆に、自分が空虚になっていて、一瞬見えたものを受け入れてしまった画面には、外面以外のものが写っている。
4半世紀もの間にわたって写真を撮っていると、曲りなりにもカメラの操作にも撮影にも慣れ、どんなカメラでもそれなりに使えるようにはなるし、どんな状況でもある程度の絵作りといったものが出来るようになります。これは飽くまで、実際に写真を撮り、人の撮った写真を見た場数の積み重ねの成果であり、筆しかない時代の人々の殆どが、今の我々よりも手慣れた字を書けるのと同じことだと思います。
ただ私の場合、変に我流で写真を学んだ人間の負目というのでしょうか、カッチリとした基本的な技術や理論というものには、表向きには無頓着だったり、時には否定してはみるものの、その実、人一倍に秘かな憧れや畏れを持っているようで、それは今となってもあまり変らないような気がします。
写真を始めてまだ間がない頃、カメラの操作に慣れただけで、“写真を撮るコツ”といったモノがなかなか身に付かなかった私が、ある時ふと開眼したような気になったのは、実は至極当り前の「シャッターを切る前に対象をよく見る」ということでした。
写真というのは絞りを開けば不要な対象をボカしてしまうことも出来ますが、画面内に入り込むモノを消してしまうことまでは出来ません。このことから「被写体を見るよりも、その背後や周囲にあるモノの方に注意を払うようにすればいい」ということが分った瞬間から、写真のレベルは数段上ったように感じました。
ところが、何事もほどほどという風にいかないのが、また私の困った性分でもあり、これを覚えてから以降、次第にシャッターを切る回数が減っていったのです。
「あ、これはいいけど、ここじゃ絵にならないからやめ」
「これが絵になるには、もう少し日が翳るのを待って・・あと30分はかかるだろうから、もうやめ」
と、万事がこんな調子になるのです。私の撮影は、どんどんワンパターンになっていきました。被写体への感動などは二の次で、なんて事ない対象であっても、無理矢理自分の心情に照らし合わせる事が出来るものに遭遇することだけを求めるようになっていました。今から1年少し前まで、ずっとこんな姿勢で写真を撮り続けていたように思います。

こんな状態でしたから、被写界深度の深いE-Systemを使うことに決めた時、「ボケで逃げることも難しくなり、ますます撮影数が減るかも・・」との覚悟をしたくらいです。
ところが、実際は撮影数がかなり増えました。今まで、撮りたくても余りにバカバカしいと思ってシャッターを押さなかった対象を確実に撮るようになったからだという気がします。もちろん、フィルム代が要らないこともあるでしょう。現像待ちの果の“ゴミ”を前にウンザリする必要がなくなったこともあるでしょう。しかし、それ以上に大きいのは「一定の出来上り」を徒に意識する必要もなくなったからでしょう。つまり、技術的な問題ではなく精神的な問題だということです。
例えば、もともと空を撮りたいという気持は強かったのですが、自分のイメージするのとイコールの空でなければすぐに諦めて−−ひょっとすると見る事もなく決め込んで−−いたのに、ふと空を見上げ、一見するとうるさい電線や電柱をも味方にし、自分の意に任せて撮る、ということが出来るようになったということなのかもしれません。
歩いている時に、レンズの画角を自分のモノにして得意になっていたのとは明らかに違う、自身が“眼”になれている実感を得るこの頃です。
そんな時に、冒頭の「直感写撃」がアタマを過るのです。
しかし、近頃の周囲を見回してみると、如何に「直感写撃」が上手な方が多いことか。もちろん、センスの問題はありましょう。しかし、それに比して、如何に自身の写真がまだまだ“ぎこちない”ことか・・
前回の山登りの一連のイメージの中に、敢えて「電線に青空と雲」を撮ったモノを入れたのですが、『猫と6ペンス』のchinpikeさんにコメントをいただき、改めて「感じて写す」ということを考え、今回の話題にしようと思い立った次第です。
藤原氏のことばは、ほんとうは写真の基礎(制作というのが何たるか)がある程度身に付いた人間でないと、肌をもってはなかなか理解し難いことであり、もちろん、20数年前の私はとてもそんな域にはありませんでした。人としての修行や煩悩の問題にも関わることでもありましょう。
今、私は当時よりは少し分るようになり・・とはいえ、まだまだ端緒、だから撮るのは止められないのでしょう。

私の写真はほとんど感じるままに撮ってるものです。
だから非常に自己満足なのですが、それで良いと思ってます。
今日のお話は、そんな私にとっては非常に心強い内容です。
私の場合も自己満足というか、いわゆる排泄行為みたいなものですが、やっぱり出た後は便器を覗いて「あ、今日は固すぎるな」とか「うーん、昨日のワインで・・」とか思う訳です・・いや、朝から尾篭な話ですみません。

記事を拝読しました。
「実にいい話だなぁ」と、思いました☆
「瞬視」に「直感写撃」ですか。。。
言うは易いが、実写には非常に難しいですぅ~。
私だと、少なくても100年以上はかかりそうです(苦笑)
…せめて長生きするぐらいしか手が無さそうです(^^;)
「瞬視」は修行が充分に足りた人が出来ることであり、私が出来るのは、開き直りなんだという気がしますね。
ただ、もっと具合が悪いのは、変にこねくり回して台無しにしてしまうこと・・やりがちなんですね。