齋藤亜矢『ヒトはなぜ絵を描くのか』を読む

 齋藤亜矢『ヒトはなぜ絵を描くのか』(岩波科学ライブラリー)を読む。裏表紙に簡単な解説がある。

ヒトの子どもは円と円を組み合わせて顔を描く。でもDNAの違いわずか1.2%のチンパンジーにはそれができない。両者の比較からわかってきた面白いことは? キーワードは「想像」と「創造」。旧石器時代の洞窟壁画を出発点に、脳の機能や言語の獲得など、進化と発達の視点から考察する。芸術と科学の行き来を楽しみながら、人とは何かを考えよう。

 「ヒト」とカタカナで書いていることから分かるように、本書は科学の立場から美術に切り込むものだ。齋藤は京都大学大学院で医学研究を収めたのち、東京藝大大学院で美術を研究した。現在京都大学野生動物研究センター特定助教であり、熊本サンクチュアリに勤務している。
 齋藤ははじめフランスやスペインの洞窟壁画を見て、そのクロマニョン人の描いた動物の写実的で微妙な陰影や遠近法などの発達した技法に圧倒される。それで、なぜヒトは絵を描くのか、動物は描かないのだろうかとチンパンジーを使って研究を進める。
 ヒトの幼い子どもが拙いながらも人の形を描き始めることができるのに、チンパンジーは抽象的な線を描きなぐるだけで形が描けない。(斎藤は、チンパンジーは表象を描かないと言う)。なぜだろう。
 チンパンジーは優れた映像記憶=直観像記憶を持っている。ヒトでは自閉症スペクトラムやアスペルガー症候群の中に卓越した記憶力を持つ者がいる。映画『レインマン』のサヴァン症候群の一つだという。

……くわしい原因は明らかになっていないが、コミュニケーションが苦手なこと、すなわち言語的な能力に問題があることとの関わりが指摘されている。
 わたしたちは言語をもったことによって、目に入るものをつねにカテゴリー化し「何か」として見ようとする記号的な見方をしている。つまり目に入るものをそのまま認識しているつもりでも、無意識に言語のフィルターを通して世界を見ているのだ。

 イギリスの発達心理学者ローナ・セルフェが報告したナディアという女の子はサヴァン症候群で、4,5歳のころからきわめて写実的な絵を描いた。ところが治療によって言語能力が発達していくと、写実的な絵は影をひそめ、いわゆる子どもらしい絵を描くようになった。
 齋藤は言う。まず、子どもが描く表象画は、記号的な絵だ、と。縦線と横線だけで構成できる線路、円だけで構成できる顔。そこに丸い半円の耳をつければクマに、三角の耳をつければネコになる。

 写実的に描くのがむずかしいのは、発達的に記号的な絵からスタートすること、そしてわたしたちが世界を知覚する段階ですでに、記号的なモノの見方をしていることが影響しているのだろう。
 つまり、まとめるとこういうことではないだろうか。記号的な表象を描くには、自分の描く線にモノの形を見出す記号的な見方が必要だ。一方で、モノを写実的に描くときには、その記号的な見方を一時的に抑制しておいて、見たモノをありのままの形や線の二次元的付置としてとらえる必要がある。この二つの見方をいわば行き来することによってはじめて、見たモノの形を正確にとらえて描くことができるのではないか。デッサンは、手技的な訓練なのだと思われがちだが、むしろ記号的な見方を抑制して、直観的なモノの見方を身につける認知的な訓練でもありそうだ。

 「 デッサンは、手技的な訓練なのだと思われがちだが、むしろ記号的な見方を抑制して、直観的なモノの見方を身につける認知的な訓練でもありそうだ」。
 ここのところはとてもおもしろい。
 また、簡単に「何か」として分類できないようなものに対峙するとき、ヒトは心の底にあるより深いイメージを探し、掘り起こそうとすると齋藤は書く。ロールシャッハ・テストもこの性質を利用しているのだろうと。

……抽象絵画のように「何か」がわからないものを見たときにも、わたしたちの心では、同じようにイメージの探索が起こっているはずだ。
 はじめて樂茶碗を見たときのことだ。千利休の好みであり、侘び寂びを代表するような茶碗。(中略)深く照りのある黒が黒樂茶碗の特徴である。茶碗の見方など知らなかったが、ただ微妙な色合いのむらとその質感が美しく感じられて、とくに気に入った茶碗をしばらく眺めていた。やがて、20〜30分たったころだったろうか、茶碗の表面にふっと夕闇にわき立つ雨雲が見えてきた。
 「何か」わからない作品を見つめていると、頭の中でイメージの探索がおこる。そこで気づきがあったものは、深く印象に残る。
 そのとき掘り起こされるのは、単に視覚的なモノのイメージだけではない。ヒトは、異種感覚間の変換が得意であり、視覚から肌触りや音を想起したりする。さらに、それに付随したエピソード記憶や情動が呼び起こされることもある。

 ここには抽象画を見るための大事なヒントが述べられている。
 本書を手に取ったのは、人がなぜ絵を描くのかが記されていると思ったからだ。それは適わなかったが、別の面で有益な示唆を多く得られたのだった。本書の副題は「芸術認知科学への招待」となっていた。