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「真空」の物理学が数十年のときをへて


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保江邦夫『神の物理学』(海鳴社、2017)

神の物理学

本書は葦原瑞穂『黎明』の第2章を理論物理学者の立場で書換えることを企図して書かれている。さらに、松井守男画伯の貴重な絵をカラーで収めている。

素領域理論(Elementary Domain Theory)は湯川秀樹博士が晩年に提唱した物理学の理論だ。その後、著者を含む湯川門人たちや数学者・岡潔や浄土宗光明派僧侶・山本空外らとの議論や理論化をへて現在に至る。特に、著者・保江邦夫が1981年に発表した保江方程式(下)が素領域理論に数式を与えたものとして重要である (Kunio Yasue, 'Stochastic calculus of variations', Journal of Functional Analysis, vol. 41, issue 3, May 1981)。

 

保江方程式

ここで、L は Lagrangian, Dx は 平均前方速度、D*x は 平均後方速度。この方程式からはシュレーディンガー方程式(1926年)を導くことができる画期的なものである。

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本書は緊密な文体で素領域理論について記述し、巻末には保江が自身の理論的枠組の形成において最大の感謝をささげる中込照明の唯心論物理学の抽象的理論「モナド論的あるいは情報機械的世界モデルと量子力学(数理的考察)」が付録として収められている。全体で190頁に満たない書物であるが、密度は濃い。


1 完全調和の真空あるいは神
本書では〈基礎理論物理学において「真空」を解明していくときにそれを「神(かみ)」と呼び、また真空が示す様々な性質のいくつかを「神意」や「愛」あるいは「情緒」などと表す〉としている。

この「真空」は「空(くう)」のことであるが、禅宗・黄檗宗総本山の釈迦像の頭上に掲げられた書の「真空」を採ったものである。本書では〈存在するものは完全な調和のみという状況を考え、それを「空(くう)」と呼ぼう〉とまず述べる。

これらの用語は、従来、そこになにも存在していない「無(む)」と同一視されてきた完全調和の真空を基礎理論物理学の考察対象とするにあたり、区別するためにもちいられている。つまり、本書において、真空は無ではない。

〈物理学を離れ形而上学に参入するならば、完全調和のみの真空の状況はまさに神の世界、あるいは神のそのものといってもよい〉との考えから、「神」の語が使われている。

議論を先走るようであるが、物理学の論文で「神」の語は使えないため、従来は別の言葉に置換えられてきた。例えば、「抽象的自我」(数学者フォン・ノイマン)や「神の覗き穴」(物理学者・数学者アイザク・ニュートン)など。

「愛」と「情緒」の語は、数学者・岡潔の〈空間というのもが「愛」の充満界であるからこそ、そこに生きる人間は「情緒」を最も大切にしなければならない〉という考えに基づく。

湯川秀樹は〈数学者ならばこそ許される岡潔の「愛」を理論物理学者の言葉である「素領域」に置き換え、「空間」が無数の「素領域」によって構成されているという「素領域理論」を提唱した〉という。

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このように、素領域理論は理論物理学だけでなく、数学や形而上学などのさまざまな領域からアプローチすることが可能である。著者には数式をまったく使わずに素領域理論を説明した書物もあるが、本書では理論物理学の立場からストレートに扱っている。

「神の物理学」のような表現に抵抗を感じる場合は、単に「真空の物理学」と解していただければよいと、著者はことわっている。


2 完全調和の自発的破れとしての素領域と素粒子
2節でもまだ数式は出てこない。しかし、非常にスリリングで、素領域と素粒子の関係について、初めて明確な像があたえられる。

2節の主題「完全調和の自発的破れとしての素領域と素粒子」について、数学的および形而上学的なアプローチがなされる。理論物理学ではふつうは数学的アプローチどまりであるが、形而上学的なアプローチも加えているのが本書の大きな特徴である。南部陽一郎博士の対称性の自発的破れ (spontaneous breaking) が用いられる。

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真空に存在する完全調和が一部で自発的に破れる場合を想定する。その自発的破れは数学的には1次元、2次元、3次元、4次元、5次元、等々、極論すれば無限次元の存在と考えられる。

〈複数の自発的破れが同時に発生する事象は確率論のポワソン分布に従う〉ので、この場合は、3個となることが最も確からしい。つまり、〈真空の中に生じる完全調和の自発的破れの大多数は泡のごとき3次元の立体領域の形を取る〉ことになる。その各々を「素領域」と呼ぶ。本書では考察対象の3次元素領域を単に素領域としておく。

〈こうして真空の中に生じた自発的破れとしての素領域の全体を「宇宙空間」あるいは「空間」と呼ぶ。即ち、「空間」の構成要素が「素領域」に他ならない〉。

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もともと真空は完全調和のみが存在していた。〈そのごく一部に完全調和の自発的破れが生じたときにはその破れた完全調和が速やかに復旧するような流れ〉が生まれるが、その性質を「南部・ゴールドストーンの定理」と呼び、その流れを「ゴールドストーン粒子」(Goldstone boson) と呼ぶ。

形而上学的素領域理論においては、このゴールドストーン粒子を「復元エネルギー」と呼ぶ。

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ここからがおもしろいところであるが、〈復元エネルギーは自発的破れが生じている部分である素領域にしか存在できない〉。ただし、〈真空の中に完全調和の自発的破れとして素領域が多数発生している場合には、一つの素領域から他の素領域へと転移する〉ことも考えられる。

この〈素領域から素領域へと跳び移っていく復元エネルギーを、素領域理論においては物質の最小構成単位である「素粒子」だと考える〉のである。

初めてこれを聞いた時は興奮を抑えられなかったのを覚えている。素粒子には、ヒッグス粒子、電子、クォーク、光子、ニュートリノ、グルーオンなどの区別がある。

2節の終わりに松井守男画伯の絵「Universe (3)」(京都・大原三千院所蔵) が2頁にわたって収められている。まさに素領域を視覚化するとこのようになるのではと思われるような絵だ。

「婦人画報」の 大原三千院探訪記事 に同画伯の「両界曼荼羅」の写真があった (下)。現物を見ていないので何ともいえないが、この屏風絵の上半分が本書に収められた「Universe (3)」によく似ている。

両界曼荼羅


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3節以降は数式がふんだんに出てくる。ここに簡単に書き表すのが難しい数式の場合はふれられないが、以下、簡単に紹介する。


3 量子力学と場の量子論
素粒子が他の素領域に転移する場合に「運動状態」にあるというが、それを記述するのに二種類の手法がある。

第一の手法は、一つの素粒子に着目してどの素領域に順次転移しているかを追う。台風の伴走観測に似ている。n番めの転移先の素領域を ξn として、転移先の素領域の系列

X={ξ0, ξ1, ξ2, ξ3, ..., ξn, ...}

で表される (数字は下付き文字 subscript[以下同様])。〈素粒子の運動をその運動経路に着目して記述する理論的枠組みは「量子力学」と呼ばれる〉。

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第二の手法は、それぞれの素領域に着目してそこでの素粒子の存在の有無を順次記述していく。台風の定点観測に似ている。真空の中に生じた3次元の素領域の全体を集合

Ξ={Ξ0, Ξ1, Ξ2, Ξ3, ..., Ξn, ...}

と記述する。このとき各素領域 Ξn(n=0, 1, 2, 3, ...) に存在する素粒子の数を N(Ξn) とすれば、素粒子の運動状態は数列

N={N(Ξ0), N(Ξ1), N(Ξ2), N(Ξ3), ...}

の変化を追えばわかる。素粒子の形態が複数ある場合には、形態Aの素粒子に添え字 a を導入して、形態A ごとにその素粒子の運動状態を数列

Na={Na(Ξ0), Na(Ξ1), Na(Ξ2), Na(Ξ3), ...}

の変化として捉えられる。〈これを素粒子Aの運動断面と呼ぶ〉。〈素粒子の運動をその運動断面の変化として記述する理論的枠組みは「場の量子論」と呼ばれる〉。

〈素粒子の数が変動したり無数の素粒子の運動を解析する場合には「量子力学」ではなく「場の量子論」を用いることになる〉。つまり、高エネルギー現象には「場の量子論」(quantum field theory) が向いている。素粒子が変動せず、数も種類も少ない場合にかぎり「量子力学」(quantum mechanics) が有効である。

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台風の譬えでいうと、台風が変化したり、多数の台風が移動してゆくような局面では「場の量子論」が有効だということだ。


5 時間と光速度
4節のスカラー光子 (クロノン) をふまえて、素領域理論がいかに深く、すぐれた理論であるかが如実に示されるのが5節だ。スカラー光子 (クロノン)は「距離」と「時刻」を定めるときの基本になる。

〈それぞれの素領域の外側は完全調和である〉ことがまず指摘される。その外側に〈接して存在するすべての素領域は、完全に一つに同期される〉。

4節と5節とをつづけて読むと、〈この「宇宙空間」においては「光」よりも速い速度で「空間」の中を移動することはできない〉ことが、素領域理論の立場から完全に得心させられる。〈この事実を原理として仮定したものがアインシュタインの「相対性理論」に他ならない〉。

つまり、〈湯川秀樹博士の素領域理論はアインシュタインの相対性原理の基礎を与える、より深いレベルの物理理論〉であることが明らかになる。

ここまでくると、そのあまりのすごさに感銘を受けざるを得ない。


7 水素原子の内部運動と量子力学
6節の水素原子をふまえて、7節は著者が〈人類の金字塔〉と呼ぶ、エルヴィン・シュレーディンガーの研究にふれる。水素原子の内部運動を初めて正確に記述した論文を1926年に発表したのだ。その理論体系は「量子力学」と呼ばれる。

7節の45頁から48頁にかけてのシュレーディンガー方程式をめぐる数式の展開は、見る人が見れば、理論物理学の精華ともいえる考察だろう。

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シュレーディンガー方程式が線形であることから生じる問題(シュレーディンガーの猫など)を著者はよく指摘するが、48頁に線形の説明がある。

H(aψ+bφ)=aHψ+bHφ

のごとく〈波動関数ψやφに対する定数倍と和を保存するように作用すること〉が、線形に作用することである (H: Hamiltonian)。

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〈原子や分子の内部運動をシュレーディンガー方程式を基本として記述する「量子力学」の理論が成立する背景には、原子や分子を構成する素粒子の運動が素領域から素領域へと転移していくエネルギーに他ならないとする素領域理論の観点があるということを忘れてはならない〉と著者は記す。

〈今さらそのシュレーディンガー方程式自身が湯川秀樹博士がたどり着いた空間の微細構造から導き出されることを示したところで、物理学の応用にはなんの助けにもならないのは事実〉と著者は謙遜するが、それ自体が理論物理学上、大変な成果であることは間違いない。

かくて、冒頭に示した保江方程式は本書には出てこない。謙遜にも程がある。

 

 

 

 

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