Profile

自分の写真
Brighture English Academy 代表。趣味はウクレレとかハイキングとかDIYとか旅行などなど。在米20年。シリコンバレーに住みつつ、日本とアメリカとフィリピンで会社経営しています。最近は英語教育がライフワークになりつつある。
ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年10月19日金曜日

自分を創る、自分を変える

その昔、「自分探し」なんていう言葉が流行りました。

今でもそういう言葉があって、みんな自分探しに外国に出掛けたりしているのかも知れません。

もう25年近く前、私も自分がナンボのもんだか証明したいような気がして、ヨーロッパを自転車で縦断したりしました。そこから得たものなんて特にありません。ただもの凄く陽焼けして、もの凄くこ汚くなって帰ってきただけです。

自転車で外国をウロウロしたって別に「自分」とやらが見つかるわけじゃありません。あっちこっち外国見れて楽しかったです。本当にそれ以上でも以下でもありませんでした。

ところがこういう体験そのものは、意外なくらい「無形」な変化を自分に与えてくれるものです。

自分を創っていく

外国に住んでみる。異なった言語、習慣、食事の中で暮らしてみる。あるいは異国を旅してみる。こうやってさまざまな体験を積んでいくこと、その「体験」そのものが自分を創って行くのではないか……。段々とそんなふうに感じるようになりました。

自分探しで外国に行くのはちょっと動機がくだらないけど、でも外国に行って見たこともない景色を見たり、知らなかった食べ物を食べたり、通じない言語の中で四苦八苦したりすると、間違いなくモノの見方や感じ方が変わってくきます。こうやって少しずつ形が変わっていくのが「自分」そのものなんだと思うんです。

人間は自覚する/しないに関わらず、他人、環境、あるいは体験からさまざまな影響を受けて生きています。そしてそういったさまざまな体験が自分という人間を創り上げて行くように思うんです。別に外国なんか行かなくたって、先生、先輩、友達、彼女などのさまざまな人々から有形無形の影響を受けながら自分が形創られていきます。

やがて就職し、家族を持った後でも私たちは変わり続けていきます。職場の上司や同僚、配偶者、あるいは自分の子供たちからもさまざまな影響を受け、私たちはずっと変わり続けて行きます。

例えばヨットに乗れるようになったとしましょう。そして一生懸命風を掴みながら洋上に出てみます。そして知っている土地を海から眺めると、また異なった印象を受けるものです。するとほんの少しだけですが、自然に対する自分の姿勢や、よく知っていると思い込んでいた郷土の見方などが少し変わるものです。

こうやって知らぬ間に自分が少しずつ変わります。様々な人と出会い、いろんな景色を見て、いい思いや辛い思いをし、人に救われたり。蹴落とされたり……。そしていつの間にか「10年前の自分」と「今の自分」とでは、モノの感じ方や見方がけっこう異なったりするものです。

変わることを恐れない

つまり「自分を創っていく」という行為は、「自分が変わっていく」ということと同じことです。

行く先なんて分かりません。でも勇気を出して、変わってしまうことを恐れず、新しい風に自分の身を任せていくことが大切なんだと思うんです。そこにまた新しい出会いや発見があります。

自分がどのように変わっていくのかは前もって予想できません。しかし新しい体験を得る面白さは、こうした意外性にあるんだと思います。

語学を憶えようと思って外国に行ったら麻薬を憶えてしまったなどの、好ましくない変化もあり得るでしょう。でもそんなことを恐れていたら、自分を変えていくという希有な体験を逃してしまうように思うんです。

子育てもまた「わからない」

子どもの教育について考えてみましょう。

幼稚園に行かせ、小学校に行かせ、中学に行かせます。子供自身があちらこちらでさまざまな人と出会い、さまざまな体験を重ね、その子が少しずつ出来上がってきます。しかし、その子がどんな体験をし、どんな大人になっていくのかなんて実は誰にも分かりはしないんです。本人でさえもわからないでしょう。

上の学校に行けば行くほど、親の手を離れていきます。どの親も、自分の子供が良き先生や先輩、あるいは友人に恵まれ、自立した大人になってくれることを願うでしょう。しかし実際のところは本人次第。いや、ほとんど運次第だと思うんです。

もしも子供に教えてあげられることがあるとしたら、「その時その時を一生懸命生きろ」ということだけではないでしょうか?

自分の人生も、あるいは子育ても、どこに向かっているのかさえ分からない、旅路のようなものです。

私たちに出来ること、それは旅路そのものを楽しむくらいのことでしょう。







2012年10月14日日曜日

限界設定の難しさ

よく心理学の本などに出てくる言葉に「限界設定」という言葉があります。

Boundary settingとかLimit settingという概念が日本語化されたものですね。

要するに子育ての際に、「ここから先はダメ」という壁を作ってあげる作業です。

「ゲームは1時間でヤメなさい」とか「10時になったら寝なさい」とか、「ご飯は好き嫌いしないでちゃんと食べなさい」とかそういう類いのことです。

よくスーパーの中でヒックリ返って泣き叫んでダダをこねているお子さんがいますが、あれは限界設定ができていない典型的な例と言っても良いでしょう。

限界設定の難しさ

限界設定は考えている以上に難しい作業です。子育てをしていく中でもっとも難しいことのひとつなのではないかと思います。境界を設けて徹底させるのはホントに楽じゃありません。

限界設定をする際、まず「何を境界とするのか」。これをキチンと決める必要があります。そしてこの作業は夫婦でやらないとうまくいきません。

よくお母さんが「9時だから寝なさい」とか「甘いものばかり食べるんじゃありません」などと言って、限界設定をしようとしているのにお父さんが横から「いいんだよな〜」なんて言って崩してしまうことがあります。逆のパターンもあるでしょう。

子供だってああせい、こうせい、言われて嬉しくもありませんから、どちらかの親が甘いことを言ってくれれば願ったりかなったりです。

また夫婦が一致しててもおじいちゃんおばあちゃんがメチャクチャをやってしまう、などというのもあります。たまにならまだしも、祖父母が近所に住んでいたりしてチョクチョクやられると本当に厄介です。

また親の言うことがそれぞれで違うんじゃ子供だってどこが壁なのか分かりません。

だから「何を壁にするのか」は夫婦で合意できていることが基本です。

境界をブラさない

せっかく境界を決めたのに、すぐにブレてしまうお父さんお母さん、結構います。

ダメなものはダメ。そこからブレないことが肝心です。今日はいいけど明日はダメ、では子供が混乱してしまいます。 子供が不憫になってしまったり、また親の機嫌で境界を変えたり…。これでは壁として機能しません。

お友達の家ならいいけど、自宅ではダメとか、そんな複雑なルール、子供には理解できませんし、今度は理解できるようになると、こういうブレているところを見つけて揺さぶりをかけてきます。子供の学習能力を侮ってはいけません。

何を伝えたいのか

よく「子供が車に乗ってくれないから帰れない」などというお母さんがいます。そして延々駐車場にいるのです。しかしそこは子供の意思を尊重するシーンじゃありません。帰る時間になったら帰る。そういうルールを教える機会なんです。問答無用で乗せてしまう。これを3回もやればもう「乗らない」問題は解決してしまいます、「お母さんはブレてくれない。」それが分かれば言うことを聞くようになるものです。ブレると分かればトコトン揺さぶりをかけます。子供の仕事は壁を乗り越えて行くことなんですから、それは当然のことです。

また子供が従ってくれないからと、モノで釣るお母さん、沢山います。「もう帰る時間よ」「ヤダ!」「お菓子買ってあげるから帰ろう」などなど……。子供が大きくなったらいったい何で釣るのでしょうか?モノやプレゼントでつっていると、子供はそういう取引を憶えていきます。結局「何を学ばせたいのか?」という問題なんだと思います。

また怒鳴ったり殴ったりしていうことを聞かせると、結果として子供も殴ったり怒鳴ったりして人を従わせてもいいと学習してしまいます。ここもまた「何を学ばせたいのか?」という問題なんだと思います。暴力で人の意志を曲げてもいいと学習させたいのか?という問題です。

萎縮させてはいけない

しかし子供があんまり萎縮してもいけないので、どうしても今日は長く遊びたい、などといった場合には、キチンと主張するよう訓練するのがよいと思います。普段キチンと限界設定をすることで、逆にこういう機会を作りだすこともできると思います。

また子供も発言をする機会を与えることも重要でしょう。最初は外食の行き先といった些細なことから始め、駄々をこねるのではなく、きちんとした発言しやすい空気を作っていくことも大切なのではないでしょうか?

ぶん殴るとか怒鳴りつけるなんてもってのほかです。私は自分もそうされ、子供にも何度かそうしてしまいましたが、子供が萎縮して歪むだけです。暴力はヤメておきましょう。

何のために限界設定するのか?

では最初のところに戻って、そもそも限界設定をなぜする必要があるのか考えてみましょう。

ひとつは社会性を身に付ける、というコトだと思うんです。社会で通用する立ち振る舞いですね。恥ずかしくない生き方。キリスト教のように「神様がいつも見ているよ」というのもひとつのアプローチでしょう。いずれにせよ、人が見ていようと見ていまいと人として情けないこと、恥ずかしいことはしない、ということを教えていく方法のひとつとして、教会に行くのもひとつのやり方でしょうが、キチンと型に嵌めて教育するいう方法もあると思います。昔風の言葉で言えば、「躾」ですね。

もうひとつは敢えて擬似的に壁を作ってあげることで、反抗期を迎えるために必要な要求不満を与えて あげる役割があるんじゃないかと思うんです。

「ああせいこうせい」と言われて嬉しい子供はいません。14歳ぐらいになると、段々「お父さんの言うことはおかしい!」などと言い出します。これはすごく健全な話だと思うんです。

あるいはウチの親はウザいからと友達との世界を構築し始め、段々そっちに引っ越してくれる。そうやって自立する。だからある年齢に達するまでは親はウザいぐらいでちょうど良いのではないかと思うんです。

本格的にウザがって、段々親離れできてきたら、段々目線を下げていってもいいと思うんです。親目線から、「少し先を生きる先輩」の目線へ。「ああしろこうしろ!」から「オレだったらこうするけどな」へシフトしていくんです。これがなかなか難しいですね。

以下5年後に加筆



さて、5年が経過して子育てが終わりましたが、この文章を最初に書いた頃は子供が思春期真っ只中で、本当に四苦八苦しました。僕は子育てを心からエンジョイさせてもらいましたが、あの数年間だけには戻りたくないな、としみじみ思うくらいです。

振り返ってみると、子供のご機嫌をとって妥協せず、でもちゃんと寄り添って話を聞いてあげてあげるのが鍵だったように思います。結局子供は大人の本気を試しているんです。とことんまで付き合ってあげるしかないです。そして子供が思春期を抜ける頃、壁は必要なくなります。親子というよりは良き友人になれます。そういう脱皮の季節が、思春期なんです。ただ、脱皮は本人も周囲も苦しいんですね。

さて、取り留めなくなって来たので、これについてはまた次回。

関連記事:牛乳石鹸のCMに感じる15の違和感



2010年1月13日水曜日

ちょっとだけ背伸びしよう

先日、人間は新しいスキルを身につけると高い満足感が得られるよう、遺伝子レベルでプログラミングされているように感じる、とブログに書きましたが、こういうことをちゃんと調べている学者がいるのでした。

Susan Harter という教育学の先生が、5、6年生の子どもにアナグラム(言葉遊び)をやらせ、どのくらい笑顔を見せるか計測するという実験をしているのですが、簡単な問題の時にはニコリともせずにつまらなそうにやるのに、被験者の子ども達にとってやや難しいぐらいの問題を出すとニコニコしながらやるというのです。そして凄く難しい問題を出すと誰も笑わずやる気をなくしてしまうそうです。

他の学者も同じような実験をしたりしてるのですが、キャッチボールもとるのが易しすぎると子どもが夢中にならず、球が速すぎてもやはりダメだそうです。ところが被験者の子どもにとってやや速過ぎるぐらいだと、一番燃えるんだそうです。

たしかにね、勉強や仕事なんかもあんまり難しいとやる気が萎えてしまいますが、スゴい簡単でもかえってつまらなくてやる気が出ないもんです。

そう思うとね、いつだって

ちょっとだけ背伸びする

っていう姿勢が大切なのかも知れません。

子どもの時にはそういう訳にもいきませんが

大人になったら自分なりに「ちょっとだけ背伸びする」という環境を作っていくのが大事かもです。



2010年1月9日土曜日

学ぶことは楽しい!(はず...)

人間っていうのは他の動物と違って、生まれた時にはろくすっぽ何も出来ません。

せいぜい乳首をしゃぶっているぐらいのもんです。

だから人間が生きていくには、必要なスキルを次々と身に付けていく必要がありますし、新しいスキルを身につけると高い満足感が得られるよう、遺伝子レベルでプログラミングされているように感じます。

例えば赤ん坊は何度となく転びながら立ち上がり、歩くことを学んでいきます。危ないから止めなさいなんて言ったって、止める赤ん坊はいません。

幼児になれば放っておいたってドアノブを開けたり、積み木で何かを作ったりと、次から次へと何かを学習していきます。

中高生の頃に独学でギターを憶えた人も多いと思うんですが、あれだって少しづつ難しい曲をクリアしてですね、別に就職や進学に有利になるわけでもないのに非常に集中して、一生懸命学ぶわけです。

そして学んでいる最中は損得とか結果とは抜きで、「出来るようになること」自体が楽しいわけです。

ところがですね、

学校の勉強となるとこうはいきません。

まず結果ありきです。

だから「学ぶ」ことは楽しい!嬉しい!という感じが吹き飛ばされてなくなってしまいます。

親だってこと成績のこととなると、どうしたって目が三角になって頭に血が上ってしまいます。

私は学校の成績がずっと悪かったですが

もう通知表を持って帰る日というのは憂鬱以外のなにものでもありませんでした。

私は高校の途中から親元を離れてアメリカに住み始めましたが

ここでうまくリセットがかかったようで

その後また、幼児が自転車に乗るのを憶えるように英語とコンピュータを「楽しい!」と思いながら、誰も監視していないのに夢中になって学習することができました。

=============================

それから20年以上の月日が流れ

気が付いたら自分の子供に「結果ありき」を押し付けているダメな親です。

「学び」というのは結果にとらわれず、学ぶ過程に集中する必要があるようです。

子供たちがどんな成績を取り、どんな会社に就職するのかという結果はまあ置いといて

子供たちが学びに集中できる環境を作ってやり、過程を見てあげることが大事なんだなあ...

と、遅まきながら学んでいます。

長い一生を生きていく上で、この「学ぶ」ことを楽しむ姿勢をね、どうにかして維持しなきゃいけません。

そうそう、子育てという学びも楽しまないと。