西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

【西国第十五番】新那智山 今熊野観音寺 (観音寺)

宗派 真言宗泉涌寺派
本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり
605-0977 京都市東山区泉涌寺山内町32
公式サイト https://www.kannon.jp




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今熊野鳥居橋



さて、山科の番外・元慶寺から、
東山の第十五番・今熊野観音寺に到着したのは、
午前9時15分頃のこと。
珍しく雨が強く降り出しましたが、
駐車場に着くと止むのは、
やはり観音様の功徳・観音力でしょうか。
観音寺と泉涌寺の間の谷を流れる今熊野川を、
この朱塗り鳥居橋で渡ります。



今熊野観音寺



さて、こちらの縁起です。
弘法大師空海が唐から帰国した、
翌年の大同二年(807)、
東山から光が出ているのを見つけた空海は、
不思議に思ってその場所にやってくると、
そこに白髪の老人の姿をした熊野権現が現れます。
熊野権現は空海に天照大神御作の、
一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡して、
この地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、
衆生を救済せよと空海に言ったそうです。
空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻んで、
授かった一寸八分の像をその体内仏として納め、
熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てました。
弘仁三年(812)には嵯峨天皇の支援で諸堂を造営し、
天長年間(824-833)に完成。
斉衡二年(855)には法輪寺という寺号になります。
平安時代後期に熊野三山に対して今熊野と称し、
白河法皇の時代には今熊野修験の中心地となり、
寺号も東山観音寺と呼ばれるようになりました。




石段




さて、駐車場から石段を上り、
本堂のある方向を目指します。



本堂



南北朝時代の騒乱や、
応仁の乱で境内は荒廃しますが、
天正八年(1580)には復興がなされ、
現在の本堂は正徳二年(1712)の建立です。
こちらで御朱印を頂戴しました。




第15番御朱印




大師堂



この大師堂は、
東山大師とも呼ばれているそうで、
開創の弘法大師空海に加えて、
不動明王、愛染明王に、
こちらの伽藍を寄進建立した、
藤原緒嗣の像も祀られています。



子まもり大師



こちらを開創した弘法大師空海が、
大切な子ども達を護り育む「子まもり大師」。
観音様やお地蔵様で、
同じような像は見たことがありますが、
空海のものは初めて見ました。



平安様式三重石塔




創建当時からあるであろうと推定される、
平安時代様式三重石塔です。
この塔はここでどんな歴史を見つめてきたのだろう。




五智水




最後に開創時に弘法大師空海が、
錫杖をもって岩根を打ち、
湧き出した五智水を頂きまして、
次の札所を目指します。



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