泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「障害者の可能性」と「甘えるな」の奇妙な両立

インタビュアーはかの北条かやさんである。

すべて説明されるがままに「そうなんですね」という感じのインタビュー。

日本財団に言われると、福祉事業者はお世話になっているところが多いからみんな黙るしかない。うちも障害者作業所ではないけれど、施設改修で助成金を受けたことがあるし。不勉強で旧態依然とした支援から抜け出せない支援者がたくさんいることも認めよう。

それでも、支援者を育んでいかねばならない立場から書くと、障害者支援を志す人たちにビジネスセンスがないことはこんなに見下されなければならないことなのだろうか。そして、このような煽り方で現場を奮い立たせることができるのだろうか。

世間のイメージでは、障害者施設というのは、「だらしない格好で、髪の毛も整えないような人がうろうろして、バザーをしている場所」といったものだと。そんな施設が建つんだったら、僕だって反対しますよ。

つまり、ちゃんとした姿を見せられない事業所側にも問題があるのです。だから、僕は反対する世間だけが悪いとは思っていません。事業者側が、そういうイメージを変える努力をしていかなければいけない。

身近な親や事業者が、障害者の可能性をつぶしている。

多くの障害者は、自己肯定感が育たないように教育されている。

今まではその「上から目線になってしまう原因」を、社会の差別心のような大きな問題として捉えていましたが、障害者を育てる人たちの意識に問題があったんですね。

障害者を「憐れの蓑」で包み、能力を低くとどめおく事業者が1番の問題だということですよね。

障害者に軽作業をさせるだけの事業者を、多額の補助金で甘やかすような現行制度が変わらないと。

そうです。制度のひずみ、効率の悪い福祉にこれだけ税金が使われているということに、もっと我々が関心を寄せていく必要があります。

中小企業はおろか大企業ですら10年後どころか5年後も安泰でなく、ずっと競争を勝ち続けなければ簡単につぶれてしまう世の中で、社会福祉や介護福祉を勉強してきただけの人たちに。

30万人のうち3割が一般企業で働けて、もう3割は最低賃金を払えるとおっしゃるのだから、18万人分の安定した障害者雇用を生み出せないのは支援者の怠慢だと。

地元の生活介護や就労継続の事業所と関わっているから、もうちょっと売れるもの作れるように頑張ろうぜとか、マーケティングに工夫いるだろとかは率直に思う。もし自分が成人の通所施設やるなら、もうちょっとは上を目指したいとも思う。 

けれども、誰もそんなビジネススキルを高められるような教育は受けてない。まずは、障害児が学校を卒業した後に「行き場所がないこと」を避けようとしてきた。それは地域によっては、今でも変わらない。目標として消極的だと言われれば、その通り。多くの障害者作業所は、切羽詰まった地域の事情から生まれてきた。「入所施設」に対して、地域生活を続けるために最低限の日中活動の場を用意する「通所施設」であったとも言える。

一方で、大学の福祉学部を出ても、介護福祉士や社会福祉士等の国家資格をとっても、そのプロセスで知的障害や発達障害への十分な知識なんて得られないのが現状。まずは「障害」に対する適切な理解からのスタートになる。単なる「障害者の行き場所」を超えていこうとすれば、障害への十分な知識を得たうえで、さらに「働くことを通じた自己実現」に強い関心を抱き、ビジネスを学ばなければならない。

生まれた作業所は数年もすれば満杯になる。そこにさらなる卒業生を受け入れてくれと学校や相談支援からの要求が寄せられる。また新たな作業所を生み出さねばならない。新たに制度的な要件を満たした事業所を作り、力のある支援者を異動させる。また新たに支援者も雇う。これを数年おきには繰り返さねばならない。卒業生の人数を見ながらの事業運営と拡大(※ただし、社会資源の豊富な地域の事情は異なるだろう)。

仕事として「すべきことがある」のはとても重要だ。「できる」ことは自信につながる。知的障害や発達障害があると「自由」によって、かえって不安定になる人も多い。だから、とにかく場があって支援者がいればよい、というものではない。「すべきこと」「できること」を用意しなければならない。もちろん積極的に取り組みたいと思えることを。それは、正しい。

だから、「障害者」が充実した日々を送るために、ひとりひとりが自己肯定感を得られるような仕事を生み出していこう、と言えばよい。そろそろ「卒業後の単なる行き場所」を超えて、「働くことの喜びを得られる場所」に変えていこう、と言えばよい。思いはあってもそのための方法がわからない支援者のために、私たちは力になります、と。「社会保障費の偏在」「税金の無駄遣い」云々ではなく。

良い意味でのプレッシャーがあると、事業者側も、誰も買わないようなクッキーや手芸品を作っているままではダメだ、となる。

で、このインタビュー記事はその「良い意味でのプレッシャー」として、支援者が「明日から頑張らねば」と思える内容になっているのだろうか? 自分にはそんな書き方には思えないし、ますます現場の元気を失わせると思うのだけれど。その人なりの力を発揮しようとした末に「お前は甘えている」って言われて、頑張れる人を知らない。

「障害者」には「潜在的な力を活かせていないだけ」と言う人たちが、「支援者」には「甘えるな」と簡単に言えてしまうのがいつも不思議だ。きっと世の中が「健常者」と「障害者」の二種類でできているのだろう。