泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

で、勝手に写真を使ったことは謝らないのだろうか

非常に困ったことになっています。(水谷修オフィシャルブログ「夜回り先生は、今!」)
http://www.mizutaniosamu.com/blog/010diary01/post_17.html
「維新の議員に無断で写真を使われた」ことに怒った夜回り先生(水谷修氏)に対する橋下徹大阪市長のツイート
http://togetter.com/li/393641
 水谷氏は、松浪議員に無断で写真を使われたことに怒った。そして、松浪氏は「維新」入りした議員であるのだから、水谷氏の写真は「維新」のアピールとしても機能しかねない。維新と水谷氏とでは教育観が大きく異なるであろうことは容易に想像できる。それでも有権者一般がそのように解してくれているかどうかはわからない。
 水谷氏は、教育実践の立場から維新の教育政策がいかに賛成できないものであるのか、について個別の論点をあげればよかったのだろうが、具体的な内容には触れていない。結果として「橋下氏を信じていない」という主張のみが強調される結果になってしまった。さらに、「もっと現場(子どもたち)のことを知れ」という意味であろうと思うが、「いっしょに夜回りをしましょう」とも書いた。
 もとはと言えば議員の落ち度であり、まず迷惑をこうむったのは水谷氏である。党首としては最初に「うちの議員が勝手に写真使って申し訳なく思う」と謝ってから、「ところで、私どもの推進している教育政策のどこが現場実践の立場から問題であると思われるのか、経験豊かな水谷氏は具体的に教えてくださらないのだろうか?」と書けばよいと思うのだが、彼にはそれができない。感情的になって「できない」のか、もっと政治的な観点から「したくない」のかはわからない。
 水谷氏に「人格を否定された」と言い、「学校を回ることだけが全ての解だと独善的になっている」と言い、「教育は教育実践のみで成り立っていると勘違いしている」と言う。「すべての〜」とか「〜のみで」とか、一言も水谷氏が書いていない言葉をすべりこませながら、相手の方が事態を断片的にしか把握していないかのように断定していく。
 そのような物言いは自らの嫌う「決めつけ」ではないか、と批判されると、「向こうが自分のことを決めつけてきたことに批判しているだけで、僕からは決めつけていない」と言って、論理に向けられた目線をそらす(言論闘争だから、相手の言葉づかい、態度振る舞いに合わせる、とも書いている)。現場の実践から教育行政システムの目指すべき方向性が導かれる部分は読者に想起させたくないのか、教育行政システムの課題は「予算」や「枠組みづくり」の問題に矮小化されて、通底すべき「教育観」や「子ども観」の話はせずに、現場の教員との「役割分担」が必要だと言う。
 議論の対象となりうる事象の範囲をそのときどきで拡張させたり、部分的に捨象したりしながら、「教育を含む全体の状況を最も俯瞰的に見られているのは自分」であり「政治という特定のシステムの状況を最も微細に把握できているのは自分」であることをアピールしていく。鳥の目も虫の目もいろんな使い方ができるものである。間違えて使わないように自戒したい。
 なお、水谷氏はつい最近(今年の8月)衆議院に参考人として呼ばれて、いじめ問題について論じていた。2007年「安倍内閣」時代の定義を評価しつつ、当時の教員も教育委員会も文部科学省もわかっていなかった、と反省的に問題点を指摘して、教育システムの範疇を超えた対応策の具体的な提言まで行なっている。大阪市でも呼んでみたらいいのでは。
08.06 衆議院 青少年問題特別委員会 参考人陳述  
http://www.youtube.com/watch?v=aeSQCCySABc
↑の議事録
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/007318020120806005.htm
(追記)この件について多くの人が関心をもつことは決して悪いことではないと思いますが、水谷氏に意見しよう連絡をとろうと試みることは多大なご迷惑をおかけすることにもなりますので自重するように心よりお願いします。以下も併せてお読みください。
http://www.mizutaniosamu.com/blog/010diary01/post_30.html