古書ニザワ業務雑記

2023/06/08~

こんな【饅頭本】は××だ! ― 超主観的【饅頭本】談義

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「生きた証に本を一冊作りたい!」

そんな貴方に向けて、日々【饅頭本】を取り扱っている古書界隈の人間の観点から一席ぶってみようというのが本記事である。
半ば冗談半ば本気、まあ話半分でご覧いただけますと幸い。

そう、【饅頭本】。
聞きなれない方もいらっしゃるだろうから、まずは根本的に「【饅頭本】って何?」から始めてみよう。
『精選版 日本国語大辞典』の説明を引用するのが手っ取り早い。
(葬式や祝い事などの際配られる饅頭にちなんで、主に古書業界でいう)売るためではなく、故人の追悼や何かの記念のために配られた本。(※コトバンクより)
要するに「《故人》/《個人》に纏わる身内向け非売品本」である(※1)。

もう少し説明を加えてみると、《故人》の【饅頭本】は故人遺稿や関係者・親族による追悼文で構成される。それに対し《個人》の【饅頭本】は古稀や傘寿などの長寿祝い、あるいは仕事の退職・退官記念、そういった人生の区切りに作成され、中身は筆者自身の人生を綴ったものが多い(※2)。

と、ざっくり一般的な説明をした上で、ここからは古書界隈に巣食うダニの目から書いてみたい。

身内に配られるだけのはずのこの【饅頭本】、実は古書の市場にかなり流れてくる。
そしてそれらは基本的には二束三文、下手したら速攻で処分――ツブしの対象になってしまう。

大枚をはたき、生涯の証にと作った本がそんな末路を迎える。それを許容できるや否や。
特に《個人》の【饅頭本】を作る場合、「せっかく遺す本なのだから長く残ってほしい」とお思いの人が多いことだろう(※3)。

物質的に言えば、国会図書館に納本をすれば長く永く残り続ける。
だが単に物質としてではなく、本として読み手がほしいのであれば、古書古本として他者の手に渡っていくことを考えねばならない。

では、どんな【饅頭本】が古書古本界隈で生き残るか?
《個人》の、に絞った上で、
「こんな【饅頭本】は生き延びる」
「こんな【饅頭本】はツブされる」
を下にまとめてみた。主語デカ偏見文章注意。

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◆こんな《個人》の【饅頭本】は生き延びる

装丁が控えめである
本は物理的なスペースの問題から逃れることができない。
故に、その厚さや装丁は控えめなくらいが丁度いい。

書き手しか知らないような体験談や裏話が書かれている
【饅頭本】には、他の本では決して読めない内容がほしい。
例えば「○○で働いていた折にこんなことがあって……」といったエピソードが満載だと嬉しい。もちろん、それが国家の一大プロジェクトだったりしなくていい。裏話というものは、どの分野・規模であろうと読み手には楽しいのだ。

処女作であり遺作である
この人の書いた本はこれしかないという特別感、そして書き手の人生がギュッと濃縮された一冊は、古書古本界隈の人間を喜ばせる。欲を言うなら、全編書き下ろしであってほしい。「これでしか読めない!」はさらにマニアの心を刺激する。

①~③のような【饅頭本】を私は拾い上げていきたいと思っているし、引き継いで行ければなあと思っている。


◆こんな【饅頭本】はツブされる

函入りの分厚い本である
デカく分厚い本を俗に【鈍器本】などと称するが、饅頭で鈍器とかややこしいので止めた方がよい……などというつまらない冗談はさておき。
せっかくだからできるだけ立派なものにしたい気持ちはわかる。
が、まずそれを配られた側のことを考えてみるとよい。ごく当たり前に、置き場に困るだろう。もらった身内や関係者さえ困らせる代物なれば、古書店がどう扱うかは推して知るべしということになる。

巻頭に勲章をぶら下げた筆者の写真が出てくる
さらにモーニングを着込み、いかにも「目一杯のおめかしをして写真屋で撮りました!」みたいなのは特にいけない。中身を読まずとも、書かれているのは自己顕示欲に満ちた自慢話だとわかってしまう。そうした自慢話の大半は、悲しいかな読み手には退屈しか与えない。

序文を政治家やらのお偉いさんが書いている
②と同様の心持ちから「ぜひ一筆」と依頼するのだろう。
自分の本に箔を付けたい、そんな心持ちが透けて見える。
その政治家が寄稿後に何かしでかしてネタ的価値が見いだせればあるいはだが、恐らくそんな残り方は本意ではあるまい。

極言、①~③がオールインしている【饅頭本】は湿気に弱い漬物石である。
読み継がれる可能性は限りなくゼロに近いと言っていい。

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生き残る【饅頭本】を作りたければ「立派なものを作ろうとしない」に尽きると思う。
等身大でいい。それで十分に面白い一冊になる。
そして面白い一冊を残していきたいと思う人は必ずいる。少なくとも、私はそうである。
素晴らしき【饅頭本】を今後も古書市で手に取り続けることができるよう願っている。

……などと好き勝手につらつら書いてきたが、
「自分の好きなように書いて自分好みの装丁にするのが本を作る楽しみだろうがい!」と言われたらそのとおりである。グウの音も出ない。

本記事の内容は私の偏見に基づくものであり、あくまで一零細古書店主の妄言、なにとぞご寛恕のほど、ぜひに勘弁してつかあさい。

遠い未来、古書市で捲った【饅頭本】の「あとがき」に、「本書作製に当たってとあるブログ記事を全然参考にはしなかった」という記載を見つけられる日が来ると信じて。無理やりの ” 完 ” 


  • ※1 ジャンルの定義とか、「売れない本の代名詞」的な意味が含まれていてとか、あれこれ言い出せばキリがないしそもそもよく知らないので、本記事ではそんな意味で括らせてもらいますという感じで一つ。
  • ※2 例外は多くあるが「※1」と同様、言い出すとキリがないのでそのあたりは割愛。
  • ※3 ちなみに、同じ【饅頭本】という括りであっても、《故人》【饅頭本】と《個人》【饅頭本】では在り方が別ものと私は思っている。《故人》の【饅頭本】は、書き手たちの心の整理のために作られる意味合いが強い――つまりその作成は葬儀や法事に近い性格のものと考える。なお考えるだけで別にそれを裏付ける何かがあるわけではない。