2024/12/23
芥川龍之介『羅生門』(新潮社/1920改刻再版)について
今回はこの間の均一まつりで購入した『羅生門』についてツラツラと書いていく……前に、ダラダラと自分語りをしてみよう。
本ブログでも何度か書いているが、私は高校教員の末席を汚していたことがある。
担当科目は〈現代文〉。
いま諸々を思い返すとそれはもう赤面と噴飯のパレードで、当時の生徒さんたちに謝罪を要求されようものなら甘んじて額を床に擦りつける所存である。
端的にその罪を自白すれば、「俺は授業が上手いんだと思い込んでいた罪」とでも言おうか。
若気の至りと言うには余りにも余りにで、死後の世界があるのなら私の地獄行きはまずもって内定済みと言える。
そうした自己嫌悪と反省はありつつ、教員時代に勉強させてもらったことは多い。
芥川龍之介の「羅生門」に関してのあれこれもそうだ。高校一年生「国語総合」における必修と言っても過言ではないこの作品、授業にあたって色々調べたり読んだりした記憶がある。作品自体の好き嫌いは別にしても、思い入れはなかなかに深い。
さて、ボチボチ読者の皆さま方も「てめえの人生に興味などないわ!」とお怒りかと思うので本題に入ろう。
芥川龍之介の初単行本である『羅生門』は1917年(大正6年) に阿蘭陀書房より刊行された。 題箋の有無や発行当時の色がどの程度残っているか等々、状態によって落差がすごいので相場が難しいところだが……函付き完品で十数万円から数十万円くらいだろうか? 再版でも完品ならなかなかなお値段なので、私にはとても手が出ない代物だ。
ただ、前述したように思い入れはあって、いわゆる当時物を手にしたいもんだと思ったりもしており、
のであるが、帰宅後に奥付をよくよく見て見ると、
ググってみての結果、〈印鑑を彫り直すこと。印面を削り、新たに文字を彫ること〉と出てきた。
ということは書籍における「改刻」は ” 活字を新しくして刷り直した ” って意味か?
仮にそういう意味だとした上で(※1)、作品「羅生門」の最後のページを開いてみる。
ちなみにご存じの方も多いかと思うが、「羅生門」の最後の一文、阿蘭陀書房版『羅生門』においては
下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。
だったのが、1918年(大正7年) 春陽堂より刊行の短篇集『鼻』において
下人の行方は、誰も知らない。
と変わっている。
改刻再版と奥付にあるこの本の最後の一文はもちろん……
芥川ほどの作家、しかもその代表作品、最新の全集でも捲ればこのあたりの表記変遷についてはまとめられていそうなもの。自分も全集は教員当時に確認したはずなのだけれど全く覚えておらず、この未改稿については素朴に「そうなんだー」感しかない。
大正当時、結末が異なる同一テキストが同時に新刊の市場に出回っていたということか。
現代において改稿の意味をどうこう述べるのはある意味簡単だが、当時リアルタイムにそれを受容した読者は何を思ったんかなとか、違いはどの程度認知されてたんやろか等々思いを馳せるなどした(※2)。
なお国デジにおける新潮社版の1923(大正12年)発行のものは、奥付に改刻や再版の文字はなく、印刷年月日は発行日に準じたものになっている。
末尾は
下人の行方は、誰も知らない。
このあたり、また浦和行くついでに図書館寄ってちょっと調べてみようかしらん。
- ※1 根本的に改刻の意味を捉え違えてたら申し訳ない。「(発行の時)刻」を「改めた」的な意味って可能性もある?
- ※2 このあたりも、恐らくどなたか論文で書いておられるかと思うが。