knoriのブログ

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ザ・クラウン その2

「市民は誰も君主になれない、という意味で平等である」と、

フランスの哲学者マルセル・ゴーシェは言う。

面白い言葉だなぁ、と思う。

つまり、象徴的な君主の存在は、

例えば、首相の権力は、相対的な権力でしかないと知らしめすことだ。

 

わたしは昔、G7をTVで見ながら、各国のトップの中で、アメリカ大統領だけに厳粛さがあるのは何故だろう、と思ったことがある。聖書に手を置いて宣誓するからなのかなぁ、とか、頭をひねった。

もっともそれはトランプ大統領以前のことだ。

トランプさんは、SNSに感情的な意見を書きまくったりして、厳粛さをわざと吹き飛ばすような人ではあった。

 

「厳粛さ」とは、言ってみれば、神的なもの、宗教的なもので、政教分離後の名残りである。

立憲君主制にはそれが隠れている。そしてアメリカ大統領の宣誓式にも。

マルセル・ゴーシェは、君主(の厳粛さ)は、ヒトラーのような暴走を抑止すると言っている。

 

君主は、自由や人権をほぼ奪われている。厳粛さを担保するためでもあり、権力を使わせないためでもある。例えば、王室の人間は、公に感情を見せたり意見を言ったりしてはいけない。

ドラマ「ザ・クラウン」では、 

王室の消滅を招きかねない大きな事件を、2つ描いている。

 

一つは、エドワード8世の恋愛である。彼は、国王を辞めた。

映画やドラマでいつも同情的に描かれている人だ。

しかし、このドラマでは、危険な人物だった。

 

もう一つは、ダイアナのTVインタビューだ。

実は、ドラマにも出てきた「ダイアナ妃の真実」という本を、わたしは持っている。もちろん、大いにダイアナに同情していた。

しかし、このドラマで、ダイアナは、破壊的な夢見る少女だった。

 

ダイアナ妃も元国王も、王室の民主化を目指した、とも言える。

しかし、王室の側から見れば、それは、利己的で危険な行動だった。

王室の民主化は、厳粛さを破壊する。

 

エリザベス女王は、最後の君主らしい君主だったのかもしれない、とぼんやり思う。

 

 

 

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