現状認識と評価の差異
以下の認識は非常に重要なものであり、より明確な論拠に基づいた詳細な研究の出現が待たれるところである。
しばしば、戦争の民営化は「国家だけが合法的に戦争をすることができる」という主権国家の原則を破壊し、それによって国家の権力を縮小させるだろうといわれることがある。しかしそれは正しくない。というのも、軍事業務を請け負う民間企業は、たとえそれが実際に武力を行使する場合でも、あくまでも国家に認可される限りでそうしているからだ。どれほど民間軍事企業が戦場で中核的な役割を担うようになっても、それらの企業が独自に戦争をひきおこしたり終結させたりすることはできない。国家だけが合法的に戦争をすることができるという図式そのものはなんの変更もうけていないのだ。
むしろ戦争の民営化は国家の権力を強化する。たとえ民間軍事企業が戦場で国家の軍事活動をサポートするために国際法をおかしても国家は責任を逃れることができるし、、またどれほど民間軍事企業から戦死者が出ても、それは正規軍の損失としてカウントされないからだ。(中略)
そもそも規制緩和のねらいは、資本や労働、土地といった生産要素の流動性をたかめて、それらを利潤率のたかい産業へと流れやすくするということにあった。そこでは、その流動性をだれがどのように管理するのかという問題が必然的に生じてくる。この「だれがどのように」というところで権力や利益の拡大がはかられるのだ。
萱野稔人[2007]「構造改革をつうじた権力の再編成――新しい利権の回路と暴力の図式――」『権力のよみかた 状況と理論』青土社、69、72頁
(前略)現代の統治は、国家による直接的・一元的な統治から、個人による能動的な自己統治にはたらきかける間接的・多元的な統治へと急速に変容しつつある[引用者注:文献注省略]。その特徴を言い表すために、「統治の統治」ないしは「再帰的な統治」という言葉も用いられるが、これらの言葉は、一方で国家による直接的な統治が後景に退くことを表すとともに、他方では、そうした統治の脱‐国家化が、古典的リベラリズムの「レッセ・フェール」への単純な回帰を意味するものではないことも示唆している。統治は、人びとの自発的かつ能動的な自己統治を積極的に促しながら、かつ、その自己統治のパフォーマンスを捕捉し、それを監査・評価するというモードに変わりつつある。言いかえれば、それは、個人や集団(アソシエーションを含む)による多元的な自己統治に広範な活動領域を与え、しかも、その活動に対する評価そのものをも多元化しながら、同時に、自己統治がそうした評価システム(audit system)をつねに参照しつつ行われるように方向づけるのである。
齋藤純一[2005]『思考のフロンティア 自由』岩波書店、87‐88頁
これら二者は統治権力の再編成と新形態への関心を示しつつ、どちらかと言えばその態度に警戒の色を含ませている。私は新たな形の政治的脅威に対する彼らの敏感さに敬意を払いたいと思っているが、個人的にはもう少し明確に両義的な評価姿勢を持っている。戦争の民営化についてはともかく、一般的に言えば、国家権力による垂直的な統治が行われる領域が狭まり、市民社会内部での自治や、民間主体と公共セクターとの協働による水平的統治の実践が拡大することは、好ましいことである。統治権力が「必要最低限」の範囲の役割に特化することで、その規模を縮小させ、市民社会が活性化することは、否定的に評価すべきことではない。逆に言えば、統治権力は「必要最低限」の仕事を手放すべきではないし、市民社会の活性化や水平的統治の実現によって新たな仕事が生じる場合もあるのだから、権力が単に縮小するのではなくて再編成という形を採ることは、自然な帰結だろう。それを新たな形の脅威や権力の強化と捉えることも可能だが、少なくとも一概に否定的な評価を下すことはできない。
で、重要なのは何がこうした事態の変化をもたらしたのかということだ。漠然とした言い方をすれば人命の尊重や個人の自由、多様性などといった価値の追求であると思うし、端的に言えば自由主義だろう。私たちは自由を求めてここまで来た。ニューリベラルな意味での自由も含めて、だ。統治権力を法で縛り、民主的決定に従わせ、特定の価値観から中立的になるように努めさせ、あくまで個人の幸福の追求を援け、支えてくれるような役割だけを担うような形を目指して、再編成に再編成を重ねさせてきたのは、私たちが自由を求めてきたからである。
そして、私たちが今居る場所というのは、相対的に見ればそれほど悪くない。それなりに多様な価値観が認められているし、それなりの自治が多元的に行われている。しかも幾人かの論者が示すところによれば、これから一層発展していくであろう非常に巧妙な管理システムによって、私たちは自ら自由になろうとするまでもなく望むものを与えられ、幸福感を味わうことができるようになるかもしれない。そうしたシステムが実現するとすれば、私たちは自由を志す態度からさえも自由になることができる。それは幸せなのではないだろうか。それを拒否する理由がどこにあるのか。自らの価値観に従って自らが望む生活を実現することができるのであれば、それが大きなシステムの中で権力によって管理された結果であるとしても、別に構わないのではないか。
もちろん、事態がそうした巧妙な管理システムの実現まで滞りなく進むのかは確かではないし、私自身はそこで拒否する理由が存在しないと考える立場にはまだ至っていないので、あくまで両義的な立場を採るべきと述べるに留める。だが、現状に肯定的に評価すべき部分が存在しないという立場に与することはできない、ということは自信を持って言える。
そこで、そういう現状認識可能性を云々する文脈からすれば、いつかに提示された荒井さんの主張を、私との「現状認識の違い」として片付けるよりは、「認識された現状に対する評価の違い」と見做して、ある程度まで評価し直すことができるのかもしれないと思い、再読してみた。
「逸脱」と「逸脱もどき」
http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-268.html
許されている……わけじゃない
http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-269.html
つまり、荒井さんは私と同じく事態の変化を認めているけれども、事態が肯定的に評価可能な側面を伴っている―ゆえにこそ余計厄介だ、と考える私と異なって、事態の変化は表面的なものに過ぎず本質的には何も変わっていないのであり、一見肯定的に評価可能に見える部分もまやかしに過ぎない(認められている自由や多様性は、脱色され、空洞化されたものに過ぎない)、と考えているということなのだろうか。しかし、そうだとすると、やはり「事態の変化」についての現状認識を共有していると言えるのかどうか疑問だ。荒井さんが言う意味での「逸脱」(「なんらかの葛藤や抵抗、告発など」)が完全に消滅する世界は存在し得ないけれども、その大部分は既に放置して構わないものと見做されているし、積極的に推奨されたり、システムの新たな推進力にさえなったりするので、「逸脱もどき」などという都合のよいカテゴリを持ち込まないで、素直に肯定的評価を下す部分があってもよいのではないかと思う。全く脱色されていない「逸脱そのもの」なるものがどうやって存在し得ると言うのか。
もっとも、事態の変化にもかかわらず一貫して何らかの権力の作用があって、それが統合なり均質化なり排除なり糾弾なり何なりを、制度などの構造によってなのか言説や文化によってなのか意識の操作によってなのか、紛れもなく行っているのだ、という認識は間違っているわけではないし、手放すべきでない重要な見方であるとは思う。それを手放さないということが両義的であるということでもあるから。問題は、果たしてそれに抗う必要があるのかという発問を認めるかどうかであって、それは一体何から逸脱すべきかがよく解らなくなっているということなのかもしれない。荒井さんは一体何から逸脱しようとしているのだろう。それは有意味な抵抗になり得ているのだろうか。
それから、別の記事も見つけたので、ついでに反論しておく。
呪われた「外部」
http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-299.html
外部の視点を導入することによって、自明のものとされている所与のシステムを対象化し、その特質を描き出すという作業は、それとして重要である。だが、外部の視点を導入しなければ批判なるものは為し得ないと考えるのは間違っている。
非常に辛いが経済的安定が得られる可能性が高い選択肢Aと、比較的楽だが経済的不安定に陥る可能性が高い選択肢Bとを示し、「Aか、Bか」という二者択一を迫るシステムがあるとしよう。このシステムを批判するためには、わざわざ「二者択一を迫ることがないシステム」などを想定する必要は無い。例えば、「二者択一を迫るにしても、Bを選んだ人がひどい経済的苦境に陥ることがないように、何らかの対策を講じるべきだ」などと言うことができる。
現実を批判するためには「ここではないどこか」のような大げさな表現は不要であり*1、ただ所与の条件からして採り得る選択肢を並べてみた上で、それらを相対的な評価に付し、最も採るべき選択肢が現行の選択と異なることを示せばよい。実現不可能なことが分かっている何らかの「外部」を現実批判の準拠点に据えようとする態度がいかに問題含みのものであるかについては、「神と正義について」で検討した通りである*2。
基本的な反論は以上で足りていると思うので、あとは読者諸氏がそれぞれに評価してくれればいい。現状肯定については何が問題なのか、よく解らない。
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*1:不要であるばかりか、具体的には無内容な話をしているにもかかわらず、読み手/聞き手を感覚的に何かわかったような気にさせやすい点で有害ですらある。
*2:要旨は以下で解る。http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070831/1188567193