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ラノベ業界最大手企業の社長・川上量生氏が垂れ流したラノベに関する偏見・虚偽・流言について

追記:元のタイトルは「ラノベ業界最大手企業の社長・川上量生氏が垂れ流した『雑なラノベ語り』について」でしたが「雑かどうかではなく虚偽かどうかを語れ」と言われましたのでタイトルを変更いたしました。記事内容としてはもとより「川上量生の主張は偏見にもとづく流言でありラノベの主人公が努力をしてはいけないというのは虚偽である」というものです。

――社会がバラバラになってしまった世界とはどのようなものなのでしょうか。なかなか想像はつきにくいですが。
 もうすでに、半分そうなっていますよ。ネットの中でも既に価値観が多様化している。(中略)例えば、ライトノベルの分野で言うと、今は売れるための絶対の方法があるんです。

――軽いタッチで描かれた、若年層向きの小説ですね。
 ライトノベルの主人公は努力しちゃダメなんです。読む側が自分を投影できなくなるからです。ヒロインは都合よく向こうからやってくる。超能力などの能力は、いつのまにか勝手に身についている。今のライトノベルの多くが、そういう設定で書かれていますよ。

――恋人や能力を努力して勝ち取るのではなく、何もしなくても、いつの間にか恋人と能力を手に入れているという設定でないと売れないということですか。その努力の過程こそが、今までは物語の根幹だったはずなのに。
 そうです。今は努力できる立派な人物が主人公だと、読む側が気後れして感情移入できないんですよ。主人公は読者と同じ等身大の人間。そして、主人公に都合のいい物語を求める傾向が進んできた。

川上量生によるこれらの発言は、トヨタの社長が「今の若者は金を持っているのでウチの若者向けラインナップは高級車ばかりですよ」などと言い出したようなものだと思います。分析としても根拠がない上に、自社がどういう商品を出しているかすら把握していない。

これが余人の言ったことならまあラノベ天狗がちょっと突っついて終わりでしょうが、現在の川上量生はラノベ市場の8割を寡占する出版社グループのトップであるわけで、こんな事実とかけ離れた認識をしていたらダメでしょう、と思うわけです。

ライトノベルの主人公は努力しちゃダメ?

たとえば『ソードアート・オンライン』の主人公は、ゲームのなかで努力して最強までのしあがった人物です。幾度も逆境に追い込まれ、敗北も喫していますが、そのたびに危機を乗り越え、他のプレイヤーたちを救ってきた英雄的な人物です。

たとえば『魔法科高校の劣等生』の主人公は、あまりにも強大な力を持っていますが、それは「いつの間にか」手に入れたものではなく、過去の人体実験でほとんど全ての感情を失った末に与えられたものです。そのため彼は非常に老成した人物として描かれています。

たとえば『Re:ゼロから始まる異世界生活』の主人公は、何度も何度も苦難に直面して絶望し、それでもそこから立ち上がるキャラクターです。良くも悪くも人間くさく、その性格から読者に嫌われることも多いですが、それでも最近放送されたアニメは大成功をおさめたようです。

いずれもWeb小説発で、カドカワ傘下の出版社から発売され、大ヒットしたラノベです。これらの主人公は努力をしていないのでしょうか。読者と同じ等身大の人物なのでしょうか。彼らが好かれて(あるいは嫌われて)いるのは何故なのでしょうか。

面倒なのでこれ以上は挙げませんが、他のラノベや「小説家になろう」作品だって、その登場人物たちは多かれ少なかれ努力を経て成長しています。

何か目に付くところだけを取り上げて「今の読者は決定的に変わってしまった」と言い立ててみせるのは、ワイドショーを眺めて「最近の若者は」と嘆く老人と変わりないと思います。

いちおう書いておきますが、逆に「フィクションの主人公は絶対に努力をせねばならない」とか言い出す人がいたら、私はそちらにも断固反対しますよ。

主人公には自己投影するもの?

川上量生は「読者は主人公に自己投影するものだ」という前提で語っているようです。こういう人はよく見かけますね。最強主人公を見ても「自己投影」、クズ主人公を見ても「自己投影」、学園ものでも「自己投影」、ファンタジーでも「自己投影」、はいはい自己投影自己投影。

「自己投影」や「感情移入」の用法にはブレがあるので、あまり使いたくはない言葉ですが、単に主人公に好感を持ったり、憧れたり、応援したりするのを超えて、「自分と主人公を同一視する」ような読み方に対して使われているように思います。

主人公と自分の境遇がまったく異なると物語を楽しめない、という人は確かにいるでしょう。話題のシン・ゴジラについても「主人公に感情移入できない」と言って批判している人がいましたね。どう考えても主人公に感情移入するような作品ではないのに。

しかしながら、多くの読者は、主人公に自己投影しなくとも作品を楽しんでいます。自分とはまったく異なる天才が主人公でも、自分では味わいたくないような苦痛を主人公が感じていても、構わず面白がることができるのです。

それは「小説家になろう」の作品だって同じです。テンプレの裏をかくアイディアを楽しむ、ゲーム実況を見るように主人公のスーパープレイを楽しむ、主人公によって引き起こされる異世界の変化を楽しむ、作者が作中に盛り込んでくるマニアックな知識を楽しむ……さまざまな楽しみ方があります。決して主人公と自分とを同一視して気持ちよくなるような作品ばかりではありません。

また感情移入するにしても、その移入先が主人公とは限らないもので、ハーレムラブコメなどでさえ、サブヒロインを応援するあまり、「主人公死ね!」などという感想を持つことがままあるわけです。もちろん、ある作品では自己投影するが、ある作品では自己投影しない、ということも普通にあるでしょう。

なんでもかんでも「読者が主人公に感情移入する」というスキームで説明しようとするのは無理があると思います。

昔は「努力」が物語の中心だった?

こういう「昔は○○だったが今は○○でなくなった」みたいな意見には、矛盾するようですけど、「今も○○はたくさんあるよ」と「昔だって○○ばかりじゃないでしょ」という反論が同時に出てきちゃいますよね。

つまり、昔も今も努力型や才能型やそのハイブリッドが多種多様に存在しているわけですよ。すべてを把握して語るのは不可能だし、何を努力と感じるかも人それぞれなわけですが、少なくともそんな一刀両断して語れる話ではないのです。

たとえば、私がいくらSAOや魔法科で描かれる「努力」を挙げたところで、「そんなものは努力と言えない」とか「努力の描き方が悪い」とか「昔の作品の努力はもっとすごかった」とか文句を言われて、あとは水掛け論でしょう。

そんな議論には付き合いたくありませんが、個人的には昔の作品と今の作品でそんなに違いがあるとは思わないです。

過去の発言

川上量生が「小説家になろう」およびライトノベルに対して言及している記事を紹介しておきます。

—— 実質的な多様性が減る、とは?
川上 例えば、「小説家になろう」っていう小説投稿サイトがあるんですけど、そのランキング上位の小説の設定がほとんど一緒になってたりするんですよ。だいたい転生もので、主人公が生まれ変わって、別の人生を歩んで、活躍するっていうストーリーです(笑)。

—— ユーザーの願望が(笑)。
川上 投稿されている小説の中には本来多様性があるはずなんだけど、ランキング上位に来るものは全部似たようなものになる。ニコ動だって、いろいろな作品が投稿されていますが、何かが流行るとそれ一色になりがちです。参加数が多いってことは、逆に実質的な多様性を減らす効果があるんです。

https://cakes.mu/posts/5036

ここで「ユーザーの願望」を勝手に読み取っているのはインタビュアー(cakesを運営している株式会社ピースオブケイク代表取締役の加藤貞顕)ですが、川上量生も特に否定はしていません。

川上氏:
 そうだ。ゲームの話題からはちょっと離れますけど,最近の「欲望充足型コンテンツ」――最近の言い方でいうと“なろう系”について,海燕さんはどう思ってるんですか?

海燕氏:
 僕はいわゆる「なろう系」の小説をそこまで読み込んでいるわけではないんですけれど,友人にはめちゃくちゃ読んでいる人が何人もいて,「俺TUEEE」だとか「チート」だとか,さまざまな言われ方をしていますよね。漫画やライトノベルなんかも含めて,努力をしないで勝利する物語が,いまの時代の流行なんだと。

川上氏:
 努力すると感情移入ができないって話はよく聞きますよね。

http://www.4gamer.net/games/236/G023617/20140509083/index_3.html

「欲望充足型コンテンツ」の最近の言い方が「なろう系」だなんて初耳です。何だかこのあたりの聞きかじりの印象が熟成されて先の発言につながったように思われますね。

終わりに

とにかく一介のネット芸人ではなくカドカワ株式会社の社長として、適当な思いつきではなく地に足の着いた発言をしていただきたく、またできるかぎり現状の把握につとめて業界の発展につなげていただきたいと思います。よろしくお願いします。