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小笠原長泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原長泰
時代 江戸時代後期
生誕 文化3年9月22日1806年11月2日
死没 文久元年12月14日1862年1月13日
改名 鎌之助(幼名)、忠貞(初名)、長泰
戒名 天体院
墓所 龍光寺
官位 従五位下壱岐守佐渡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
肥前唐津藩
氏族 酒井(左衛門尉家)小笠原氏
父母 酒井忠徳
養父:小笠原長昌
兄弟 酒井忠器水野忠実黒田直侯
市橋長富内藤政民長泰、貞寿院
前田長禮順孝生駒親道正室、三好胖
養子:長会
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小笠原 長泰(おがさわら ながやす)は、江戸時代後期の大名肥前国唐津藩2代藩主。官位従五位下壱岐守佐渡守。忠知系小笠原家10代。

略歴

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出羽国庄内藩主・酒井忠徳の六男として誕生。幼名は鎌之助。初名は忠貞。

文政6年(1823年)12月29日、先代の唐津藩主・小笠原長昌が死去した後、実子の長行が幼少だったことから、養嗣子となって跡を継ぐこととなった[1]。文政7年1月15日、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。文政8年12月16日、従五位下壱岐守に叙任する。後に佐渡守に改める。

長泰は生来から病弱な上、33万両の借金を返済するために領民に重い人頭税を課すなどの悪政を布いた。専売制も行なって藩財政再建を目指したが、文政11年(1828年)には領内が大風害を受けたために効果がなかった。

天保4年(1833年)9月20日、隠居して養子・長会に家督を譲った。文久元年(1861年)12月14日に56歳で死去した。

系譜

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父母

側室

  • あり

子女

養子

系図

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     ┏忠真━忠雄━忠基━忠貞━永姫━長堯━長昌
     ┃ ┣宝光院━━━黒田長清
小笠原秀政┫亀姫       ┣継高━為姫━酒井忠徳━小笠原長泰
     ┃ ┣長次━長勝━定香院
     ┗忠脩     

脚注

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  1. ^ 長泰の曽祖父黒田継高小笠原長勝の外孫かつ小笠原忠真の曾孫であった。
  2. ^ 表向きは旗本御小性組・小笠原頼母の子。前田長徳の養子。
  3. ^ 新選組隊士。
  4. ^ 小笠原長世の養子。