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大久保忠職

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大久保忠職
大久保忠職
時代 江戸時代前期
生誕 慶長9年(1604年
死没 寛文10年4月19日1670年6月6日
改名 仙丸・千丸(幼名)、忠職
墓所 京都市上京区寺町通りの本禅寺
官位 従四位下加賀守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光家綱
武蔵騎西藩主→美濃加納藩主→播磨明石藩主→肥前唐津藩
氏族 大久保氏
父母 大久保忠常奥平信昌の娘
兄弟 忠職片桐貞昌正室、本多重能正室、里見忠義正室
正室松平忠明の娘[1]
新十郎、宇津季之忠倫
養子忠朝
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大久保 忠職(おおくぼ ただもと)は、江戸時代前期の大名武蔵国騎西藩の第2代藩主美濃国加納藩主、播磨国明石藩主を経て、肥前国唐津藩の初代藩主官位従四位下加賀守相模小田原藩大久保家2代。大久保忠常の長男。母は奥平信昌亀姫徳川家康の長女)の娘。大久保忠隣の嫡孫に当たる。

生涯

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慶長9年(1604年)、大久保忠隣の嫡男・忠常の長男として生まれる。慶長16年(1611年)、父の早世により家督を継ぐものの、大久保氏の政務はまだ健在であった祖父・忠隣が行なった。しかし慶長19年(1614年)に忠隣が改易され、近江国栗太郡中村に流罪となった他、大久保氏の多くも処罰された。しかし祖父・忠隣の功績が大きいこと、加えて外祖母が徳川家康の長女・亀姫であったことを考慮した幕府から特別に、嫡孫の当人だけは2万石の騎西藩主として騎西城での蟄居処分として罰を軽減され、大久保氏の存続を許されている。

寛永2年(1625年)、忠職は罪を赦され、寛永3年(1626年)12月5日には加賀守に叙位・任官される。寛永9年(1632年)1月11日、3万石加増の5万石で美濃加納藩へ加増移封となる。この要地・加納への入封は前任者である母方の従弟・奥平忠隆の死去に伴うもので、外祖母・盛徳院の縁もある。

寛永16年(1639年)3月3日には2万石加増の7万石で播磨明石藩へ移封される。慶安2年(1649年)7月4日には1万3000石加増の8万3000石で肥前唐津藩へ加増移封された。

忠職は前藩主・寺沢堅高による悪政を正すため、唐津藩の藩政においては地方知行制の廃止と蔵米知行制の導入、代官制度による統治と農民登用による民政の安定など、藩政の基礎固めに努めた。寛文10年(1670年)4月19日に死去。享年67。

3人の息子が早世して嗣子がなく、従弟の忠朝(叔父の旗本大久保教隆の次男)を後継とした。墓所は京都市上京区寺町通りの本禅寺。墓碑が佐賀県唐津市和多田の丸宗公園にある。

系譜

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父母

正室

子女

養子

脚注

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  1. ^ 母方の従姉妹