今年の流行語大賞は「面従腹背」だと思うが、この言葉は意外に重要なインプリケーションをもっている。サラリーマンなら誰でも面従腹背の経験があると思うが、それが大きなストレスになるのは、彼らが役所や会社をやめられないからだ。こういう状況は、江戸時代からあった。
「武士道」という言葉は新渡戸稲造が捏造したものだが、それを江戸時代に使った数少ない本が『葉隠』である。これは「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉で有名だが、死を美化する本ではなく、むしろ日常的な武士の心がけを書いたものだ。特におもしろいのは、ここに面従腹背のエートスがみられることだ。
『葉隠』は主君への絶対服従を説いているようにみえるが、笠谷和比古氏も指摘するように、そこで山本常朝が忠誠の対象としているのは藩主ではない。主君の政治が間違っている場合には「主君の御心入を直し、御国家を固め申すが大忠節」という言葉で忠誠の対象になっているのは、個人としての藩主ではなく「国家」(鍋島藩)なのだ。
「閉じた社会」のエートス
これは本家の中国とは対照的だ。丸山眞男によると、漢以前の「原始儒教」においては、君臣の関係は相互的で、「君君たらざれば臣臣たらず」(君不為君、臣不為臣)だったという。諫言という考え方はあったが、「三諫して(3回諫言して)聴かれざれば去る」というexitだった。日本でも戦国時代まではこれに近い自由な関係があったが、江戸時代に大名家と武士の雇用関係が固定されると、「聴かれざれば去る」というわけには行かないのでvoiceで主君を説得し、それでも主君が聞かない場合は主君押込という非常手段をとる。
江戸時代の各藩は「家」としての自律性を失い、幕府の命令で改易(とりつぶし)・転封されて雇用関係が崩壊することも珍しくなかった。このような「鉢植えの大名」といわれる状況では、主君が幕府と紛争を起こして「お家断絶」になるリスクがあると、家を守るために家臣が主君を幽閉する。
ここでは国=家であり、藩を超えるネーションは想定されていなかった。『葉隠』の特徴は家としての鍋島藩への強烈な愛情で、それを「恋の心入れの様なる事なり」という。釈迦も孔子も、鍋島家に奉公していないから役に立たない(!)
こういうエートス(職業倫理)が生まれたのは、主君と部下の関係が固定された幕藩体制の閉じた社会に固有の現象だったが、それを日本全体に適用すると「徳川家は日本という国=家にふさわしくないので倒す」という尊王攘夷の倫理にすり替わった。
前川氏の体現しているのも「安倍政権を倒して日本という大きな国=家を守る」という武士道かもしれない。それはそれで日本的な倫理としては一貫しているが、彼はそれが霞ヶ関の「閉じた社会」でしか通じないエートスだということを意識していないようにみえる。