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花岡信昭氏の「絶滅危惧種的メディア論」

産経新聞の元政治部長だった花岡信昭氏が、日経BPで「記者クラブ制度批判は完全な誤りだ」と主張している。昨今の記者クラブ開放に反対する勇気ある発言、といいたいところだが、その論理があまりにもお粗末で泣けてくる。彼はこう宣言する:
日本の記者クラブは閉鎖的だという主張は完璧な間違いである。アメリカのホワイトハウスで記者証を取得しようとすると、徹底的に身辺調査が行われ、書いてきた記事を検証され、指紋まで取られる。そのため記者証取得には何カ月もかかる。[・・・]内閣記者会には、日本新聞協会加盟の新聞社、通信社、放送会社に所属してさえすれば、簡単に入会できる。
これは「閉鎖性」とは何の関係もなく、アメリカはセキュリティ・チェックがしっかりしていて、日本はいい加減だということである。私がNHKに勤務していたころは、記者証を政治部の記者に借りて首相官邸の中まで入ったこともある。武器のチェックもしないので、テロリストが記者証をもってまぎれ込んだら一発だ。
以前は、記者クラブを「親睦組織」と規定していたのだが、それを「公的機関の情報公開、説明責任という責務」と、メディア側の「国民の知る権利を担保する責務」が重なりあう場に位置するといった表現に改めた。親睦組織という位置づけでは、公的機関の側が記者クラブの部屋を提供するといったことの説明がつかないためである。たしかに、かなり前までは、電話代やコピー代など諸経費を公的機関の側に負担させるといったことも行われていたが、さすがに、いまではそういう不明朗なことは払拭された。
私の勤務していたころに比べれば、電気代などを負担するようになったのは一歩前進だが、「公的機関の側が記者クラブの部屋を提供」して家賃も払わないのはどういうわけかね。「国民の知る権利」をどういう根拠で特定のメディアが独占するのか。東京都心の一等地の家賃は、駐車スペースを含めると月数十万円だと思うんだけど、こういうのを便宜供与というんじゃないの。それに役所に支給されていた机や電話や雀卓も返したのかな?
政治取材には「記者会見」と「懇談」がつきものだ。会見は相手の名前を特定して報道していいケースである。「懇談」というのは、「政府首脳」「政府筋」「○○省首脳」などとして、発言者をぼかして扱うものだ。会見開放となると、いったいどこまでオープンにするかが現実問題として厄介なことになる。
記者会見はクラブがなくてもできるし、懇談なんてものは日本以外の国にはない。記者はそれぞれの実力で政治家に食い込み、個別に取材するのだ。「どこまでオープンにするか」なんて、記者が自分の責任で決めるんだよ。「特落ち」を恐れて各社がぞろぞろ政治家の自宅に上がり込んで夜中まで飲ませてもらい、「ここはオフレコで」などと話し合っているのは、メディアのいつも指弾する談合じゃないのかね。

救いがたいのは、花岡氏が「より深い情報を取材する」方法が記者クラブしかないと信じ込んでいることだ。世界中でこういう奇怪な制度があるのは日本だけだが、彼の論理によれば他の国の記者は「濃密な取材」ができないらしい。たとえばNYタイムズと産経の記事を比べれば、どっちが「深い情報」にもとづいて詳細に取材しているかは一見して明らかだろう。そもそも花岡氏のように田母神論文を「事実関係はおかしいが根性がある」という理由で最優秀に推すような人物にとっては、事実なんかどうでもいのではないか。

日本のIT産業がガラパゴス化していることは総務省も問題にしはじめたが、もっとひどいのは「日本語の壁」に守られているメディアだ。しかも外の世界を知らない彼らは、自分たちが特別なエリートだと思い込んでウェブなど他のメディアを蔑視し、花岡氏のように特権意識丸出しで開き直る。悪いけど、誰も産経をエリートだなんて思ってないよ。それはフジテレビに支えてもらってようやく経営を維持している絶滅危惧種にすぎない。絶滅に瀕しているのはこのように変化を拒否してきたからなのだが、何とかは死ななきゃ直らないのだろう。

「第四権力」の政権交代

きのうの「アゴラ」は「『記者クラブ開放』の約束は嘘なのか」という記事にアクセスが集まり、1万5000ユーザーと過去最高を記録した。これ以外にも、ネット上の首相会見についての記事のほとんどは、鳩山氏が「首相会見を記者クラブ以外のメディアに開放する」と約束したにもかかわらず、ネットメディアを閉め出したことへの批判だった。

ところが驚いたことに、けさの新聞各紙にはまったくこの問題への言及がない。その代わり彼らが集中攻撃しているのが、「官僚の記者会見禁止」だ。確かにこれはおかしい。ブリーフィングまで禁止したら、細かい実務的な話まで大臣や政務官が答えなければならなくなって、業務は回らないだろう。事務次官会見の廃止はいいとして、他の官僚の取材については政治家が管理すればよい。

まだスタートしたばかりだからしょうがないが、民主党の情報管理はちぐはぐだ。「官僚の情報支配を排除する」といいながら、首相会見の閉め出し騒動の原因は、どうやらメディア管理を内閣広報室に丸投げしたためらしい(*)。しかも広報室が内閣記者会(官邸クラブ)と「協議」して雑誌記者は5人だけ認めたというから、官僚支配どころか記者クラブ支配である。

企業でも、電話1本で社長が取材に応じるのは中小企業だけで、上場企業ではどんな細かい取材でも広報を通すのが常識である。ところが官庁だけは、記者クラブに加盟しているメディアであれば、広報を通さなくても直接、課長がインタビューに応じる。これは取材するほうは簡単でいいのだが、それを放送してから問題が起こると、広報からクラブに文句が来たりする。要するに、クラブが企業の広報部のような情報管理機関の役割を果たしているのだ(昔は取材の申し込みもクラブを通さないと受けなかったが、これは「NC9」のプロデューサーがつぶした)。

こういう情報管理体制は、メディアが数社しかなかった時代の遺物である。今のようにメディアが多様化した時代に、特定の新聞社・放送局だけを広報機関として使うシステムは実態に合わない。官僚の会見を禁止するのではなく、官庁の記者クラブを解散し、すべての情報を管理する報道官(政務官の兼務でよい)を官邸以下すべての官庁に置き、省庁の情報発信を政治家が一元管理すべきだ。

政権が交代しても官僚機構は交代しないが、政治家の支配下に置くことはできる。政権が変わってもコントロールできないのは、「第四権力」メディアである。特に没落しつつある大手メディアは、今後あらゆる手段で情報独占を守り、他のメディアを排除しようとするだろう。今回の記者クラブ騒動をめぐる報道カルテルのように、記者クラブ以外には報道機関は存在しないというのが彼らの立場だ。

民主党が闘うべき相手は官僚ではない。行政機関は立法府の目的を実現する手段であり、統治システムを変えれば命令に従う。民主党政権がまずやるべきなのは、記者クラブという奇習に象徴される日本の第四権力を交代させ、表現の自由と多様性をウェブを含むすべてのメディアに開放して、真の民意を政治に反映することである。

(*)コメントで教えてもらったが、神保哲生氏によれば、官邸の広報に「雑誌と海外プレスだけでいい」と伝えたのは平野官房長官だという。だとすれば、首相の約束を官房長官が破ったことになる。民主党は今回の経緯をきちんと説明すべきだ。

官邸にも「報道官」を

鳩山政権で首相官邸にも「報道官」を置く構想があったが、立ち消えになったようだ。政策の総合調整を行なう官房長官が毎日2回も記者会見を行なう体制は、情報管理を軽視する日本の政治の象徴である。どこの国でも首相や大統領の補佐官は「内側」の仕事、報道官は「外側」に向けた仕事で、両方を同一人物が兼務する例はない。特に今度、官房長官になると目される平野博文氏は「女房役」タイプで、積極的に情報を発信するのには適していない。

実は今でも、内閣広報官というポジションはある。省庁再編のとき、内閣の情報発信機能を強化するために設けられたが、局長級の官僚であるため、官房長官とは発言の重みが違い、ほとんど機能していない。NYT論文事件でもわかったように、情報管理は内部調整と同じぐらい重要な職務だ。今までは記者クラブとの談合で、都合の悪い情報は幹事社が押えてきたが、これから記者クラブを開放するとすれば、海外を含めた多様なメディアをコントロールするのは、官房長官が片手間でできる仕事ではない。閣僚級の報道官を設け、政治家が就任してはどうだろうか。もちろん官房長官会見もぶら下がりもやめ、情報発信は報道官に一元化して、情報管理には専門のスタッフを置くべきだ。

「ぶら下がり」は廃止せよ

きのうの麻生首相のぶら下がりは見苦しかった。もう実質的な政治権力を失っているのだから、ぶら下がりなんてやってもしょうがないだろう。

以前の記事でも書いたように、ぶら下がりは官邸と記者クラブとのなれあいの産物だ。毎日2回も雑談すると首相の言葉が軽くなり、情報管理が十分できないため、不用意な発言で政治への信頼を失わせる。鳩山政権は記者クラブの独占体制をやめるそうだから、ぶら下がりもすべてのメディアを相手にしなければならない。それは不可能なので、こういう世界にも類をみない奇習は廃止すべきだ。

鳩山氏のNYT論文について

この問題は全世界に波紋が広がっているが、肝腎の「鳩山氏が寄稿したのか」という事実関係について矛盾した情報が飛び交っており、民主党側も危機管理に乗り出した。私がけさ党の関係者に聞いた話によれば、経緯は次のとおり:
  1. VOICE9月号に出た論文を読んだLAタイムズの日本の代理人から、VOICE編集部に「海外に紹介したい」という要請があった。
  2. VOICEを発行するPHP研究所から鳩山事務所に連絡があり、事務所が業者に委託して英訳をつくった。
  3. この英訳をLAT代理人が、LATやNYTの加入しているGlobal Viewpointというシンディケートに送った。
  4. このシンディケートの事務局であるIHTが全世界の加盟社に配信した。
  5. 8月19日にCSMに載り、26日にIHTに出た。このファイルがNYTに共有されるシステムになっており、自動的にNYTに出た。
この英訳の全文は鳩山氏の公式サイトで公開されているので、問題は誰がそれを抜粋し、鳩山氏の署名をつけたのか、そして鳩山氏側がそれを了解したのかという点である。これについて産経は、芳賀大輔秘書のコメントとして「PHP研究所とIHTの間ではやり取りがあったようだ」と書いているが、芳賀氏が経緯を知ったのはNYTに論文が掲載されたあとで、事前に了解した事実はない。

LAT代理人がVOICEにコンタクトしたとき、その英訳を「抜粋して鳩山氏の署名入りで世界に配信する」という説明は行なわなかったもようだ(少なくとも鳩山氏側は聞いていない)。そもそもシンディケーションというしくみをVOICEも鳩山氏の秘書も知らなかったので、LATに引用される程度のことと考えていたらしい。著作権などについての契約も行なわれておらず、すべて口約束で事実の確認が取れないが、事務所側もVOICEも事前にゲラは見ていない。

まだ最終確認は取れないが、署名入りで発表する場合には著者がゲラを確認するのが(少なくとも日本の)常識で、次期首相になる人物の論文を勝手に抜粋して、ゲラも見せないで"by Yukio Hatoyama"として全世界に配信するのは非常識である。ただLATの代理人が抜粋してIHTに「鳩山論文」として送ったとすれば、責任はIHTではなく代理人にある。

公平にみて、抜粋・転載した側(LAT代理人?)の説明不足が行き違いの原因だと思われるが、鳩山氏側も情報管理に抜かりがあったようだ。特に19日にCSMに出てから1週間も、それに気づかず放置していたのは、選挙戦のドタバタの最中とはいえ、内容を了解したと受け取られてもやむをえない。

民主党は、まずこの論文がメディアによる一方的な抜粋であり、鳩山氏側が寄稿も了解もしていないことを世界に周知すべきだ。転載するメディアには署名を削除するよう要請し、公式訳を参照するよう呼びかけてはどうか。民主党が記者会見を記者クラブ以外にも開放するという方針を打ち出したのはいいことだが、それはこのようなリスクが大きくなることも意味する。これを教訓として、海外メディアを含めた広報体制を強化する必要があろう。

追記:読売によれば、抜粋したのはGlobal Viewpoint側のようだ。無断で抜粋・転載した文章に著者の署名をつけるのは、ルール違反である(これは海外メディアの友人も同意)。

続報2:ビデオニュース・ドットコムによれば、コンタクトしたのは「LAタイムズの代理人」ではなく(LATの親会社トリビューン社の子会社である)Global Viewpoint社の代理人だったようだ。その代理人は、同社が「世界100の主要新聞に記事を配信している記事配信会社であることも、英文を転載することも、短く切ることも合意もできていたはずだ」というが、鳩山氏側はLAタイムズに(何らかの形で)載るという認識しかなく、GV社は縮めた原稿を鳩山氏側に見せていない。混乱の原因はGV社の説明不足にあると思われるが、鳩山氏側も確認しなかった責任はある。掲載された英文は原文にあるので、鳩山氏が「寄稿していない」と断言したのはおかしい。

官僚たちの夏

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TBSで『官僚たちの夏』という連続ドラマが始まった。多少は皮肉をまじえているのかと思ったら、原作以上に産業政策バンザイで驚いた。いまテレビ番組をつくる世代には、あの時代の失敗の体験が受け継がれていないとすると、困ったものだ。

城山三郎の原作(1975年)は、佐橋滋という実在の通産事務次官をモデルにしたもので、私の世代には、この小説に感動して大蔵省を蹴って通産省に入った学生もいた。小説はかなり史実にもとづいているが、このドラマは冒頭に出てくる「国民車構想」からして完全なフィクションだ。通産省がそんな事業を推進した事実も、そういう自動車が試作された事実もない。むしろ自動車は、失敗だらけの産業政策の中で役所が干渉しなかったから成功した数少ないケースだ、というのがポーターなどの評価だ。

原作の中心になっているのは、1962年に佐橋が立案した特振法(特定産業振興臨時措置法)で、企業の合併などによって外資に対抗し、国際競争力を高めようとするものだったが、実際には時代錯誤の統制経済だとして民間の反発をまねいて挫折した。佐橋自身も退官後は余暇開発センター理事長となって、産業振興とは逆の仕事で余生を送った。

しかし特振法の精神は通産省の行政指導として残り、外資を排除して国内企業の「体質強化」をはかる保護行政が続いた。原作で印象的なのは、「自由化したら国力の圧倒的に大きいアメリカにつぶされる」という被害者意識と、「自分たちが指導しないと民間には力がない」という国士意識が強いことで、このDNAは経産省にも受け継がれている。21世紀になっても、「日の丸検索エンジン」とかエルピーダ救済とか、産業政策の亡霊はまだ霞ヶ関を徘徊しているようだ。

派遣切りという弱者を生んだもの

今年の1月にCS「桜プロジェクト」で放送されたYouTube映像(40分)を、全文を逐語的にブログで書き起こしてくれた人がいる。ありがとう。これに出演したきっかけは、菅直人氏が製造業の派遣労働を禁止する法案を出したことだった。司会者が問題を理解していないため後半は話が混乱しているので、パート1だけ読めば私の主張はわかると思う。

パート1
パート2
パート3
パート4

私がここで提起した問題は、今も変わっていない。日本で起こっている格差問題は、「市場原理主義」による所得格差ではなく、ノンワーキング・リッチとフリーターの身分格差が固定されていることであり、これは失業給付や生活保護では是正できない。明治維新で士農工商の身分制度を廃止したように、正社員だけに絶対的な身分保護を与える制度を変えないかぎり、問題は解決しない。

結果的には、お膝元の人材サービスユニオンにも反対され、菅氏の法案は幸い挫折した。しかし派遣村を批判した総務政務官を更迭せよと国会の代表質問で迫った鳩山由紀夫氏は、今や民主党の代表だ。このように労組と癒着した鳩山政権ができると、麻生政権より悪くなるだろう。その末に自民・民主とも空中分解して「第三極」が出てこないかぎり、日本の政治は変わらないのではないか。

新聞の没落と資本主義の運命

経済危機の打撃をもっとも受けたのは、意外なことに新聞だった、とEconomistは論評している。サンフランシスコからは地方紙が消えるかもしれない。イギリスでは昨年、70の地方紙が消えた。NYタイムズさえ、グーグルに買収されるとかNPOになるとかいう噂が流れている。日本でも、朝日新聞社のボーナスは48%減額されたそうだ。

新聞社には気の毒だが、この流れはもう変わらないだろう。価格は限界費用に等しくなるという市場原理はきわめて強力なもので、長期的にこの法則からまぬがれた産業はない。デジタル情報の限界費用(複製費用)はゼロなので、その価格がゼロになることは避けられない。ましてウェブのように完全競争に近い世界では、新古典派経済学の教科書に近い結果が短期間で成立し、レントはゼロになってしまう。

これは実は新しいことではない。クラークも指摘するように、産業革命の恩恵をもっとも受けたのは単純労働者であり、資本家の利潤はほとんど消費者に移転された。競争的な市場では、稀少なボトルネックに付加価値が集中する。資本蓄積は急増したが、労働者は農村から都市に移動しただけで、ずっと労働力が生産のボトルネックだったから、労働者が付加価値の大部分を得たのである。資本家がもうかったようにみえるのは、もうかった資本家だけが記録に残ることによる生存バイアスである。破産した資本家をあわせると投資の収益率はマイナスになっている、とフランク・ナイトもケインズも指摘した。

限界費用の法則からまぬがれる方法は一つしかない。なんらかの形で独占によるレントを作り出すことだ。それは古典的な独占だけではなく、イノベーションも他人のもっていない技術やビジネスモデルによって一時的な独占を作り出す手段である。したがって競争的な市場ではイノベーションは生まれない、とシュンペーターは予告したが、現実には競争的な市場ほど多くのイノベーションが生まれている。それは参入が容易だからだ。資本主義はカジノと同じく、平均的には損するビジネスに「自分だけはもうかる」と信じて参入する資本家の錯覚によって成り立っているのだ。超競争的なインターネットは、この資本主義の矛盾を暴露したにすぎない。

ウェブですべてのデジタル情報が無償でコピーされ、狭義の「コンテンツ産業」が縮小することは、遅かれ早かれ避けられない。その代わり、ウェブで表現するクリエイターの数は何百倍にも増え、提供される情報の量は在来メディアをはるかにしのいでいる。それは質においてはまだ在来メディアに劣るが、多様性においてははるかにまさる。人々がもっとも知りたいのは自分のことだから、こうしたパーソナルなメディアの付加価値はマスメディアより大きい。

つまり今までは「どうでもいい情報を何百万人に向けて出すマスコミ」か「身内だけの個人的な会話」しかなかったメディアのポートフォリオが連続になり、両者の線形結合の上に多くの新しいメディアが生まれているのだ。これは前者が消滅することを意味するのではなく、そのうち新しいバランスが成立するだろう。しかし、そのとき残っている新聞社(あるいはメディア複合体)は全国で3社ぐらいになるかもしれない。ここでも資本家は負け、消費者が勝つのである。

解雇規制というタブー

NHKが「あすの日本」というシリーズを始めた。6日に放送された第1回は「35歳を救え」。おもしろかったのは、35歳の1万人へのアンケートだ。「転職経験がある」が66%、「会社が倒産するかもしれない」が42%、「解雇されるかもしれない」が30%と、ロスジェネ世代にとっては、すでに終身雇用は終わっているようだ。

ところが、これに対するおじさんたちの反応が鈍い。番組のテーマは「正社員をいかに増やすか」だが、その正社員の雇用を妨げている解雇規制にはまったくふれない。その代わり35歳を救う「決定打」としてNHKが提唱するのが積極的雇用政策。いかにもNHK的なpolitically correctな話だが、これだけやっても効果はない。職業訓練すべき転職者が出てこないからだ。積極的雇用政策に熱心なイギリスに取材しているが、そのイギリスの失業率は日本より高い。産業別労組によって労使関係が職域ごとに分断され、労働市場が日本より硬直的だからである。

こういう人畜無害な番組になってしまう理由はわかる。たぶんスタッフは、解雇規制の問題を取材しただろう。しかしプロデューサーが「これは危ない」と判断して落としたものと思われる。NHKに抗議に乗り込んできたり訴訟を起こしたりする「プロ市民」の、もっともきらう問題だからである。その代わり、これでもかこれでもかと「ワーキングプア」の悲惨な生活が映像で描かれ、「彼らを救え」という無内容なヒューマニズムがコメントで繰り返される。それには誰も反対しないからだ。

NHKの番組では「物への投資から人への投資へ」と言っているが、日本で人的資本への投資をさまたげているのは、そのリスクをヘッジする手段がないことだ。企業が設備投資するとき、その設備が使い物にならないとわかっても転売不可能で、40年近く使わなければならず、運用コストが4億円以上になるとすると、そんな設備に投資する企業はないだろう。正社員は、そういうハイリスクの投資なのだ。このように雇用のポートフォリオが無期雇用(事実上の40年契約)しかないことが過少雇用をまねいている。このリスクをヘッジする安全弁が、ワーキングプアである。

90年代の雇用問題でも、同じような報道が繰り返された。バブル崩壊の初期には指名解雇も行なわれたのだが、こうした事件はメディアの集中攻撃を受け、企業は「労働保持」せざるをえなくなった。これによって過剰雇用がながく残ったことが、不況が長期化した一つの原因だ。そしてリスクの高い新卒採用を控えて非正社員で代替する傾向が、1994年ごろから強まった。それを「小泉内閣の新自由主義でワーキングプアが増えた」などと問題をすりかえ、派遣労働の規制強化を求めたのもメディアだ。経済政策をミスリードして「失われた20年」を生み出したメディアの責任は、政治家や官僚に劣らず大きい。

今回の雇用不安でも、新聞・テレビは解雇規制というタブーに手をつけようとしない。前述のような35歳の実態が、大手メディアのエリート・サラリーマンには見えず、自分たちのような「終身雇用」が社会の少数派だということにも気づかないからだ。しかし経済誌はほぼ一致して解雇規制の緩和を提唱し、ウェブではワーキングプアを労働市場から排除する「団塊世代の既得権保護」を批判する意見が圧倒的に多い。

日本経済の抱えている問題は複雑で困難だが、すべての問題を一度に解決する必要はない。ORでもよく知られているように、特定の資源がボトルネックになっているときは、ボトルネックに資源を集中すれば全体が大きく改善されることがある。日本経済をだめにしているボトルネックが雇用慣行だとすれば、改革のボトルネックになっているのは大手メディアだ。ウェブがそのタブーを破壊すれば、事態が変わる可能性もある。

右派論壇の終焉

『諸君!』の最終号が送られてきた。特集は「日本への遺言」。これを読んでいると、終わるのはしょうがないなと思った。西部邁「戦後的迷妄を打破する『維新』を幻想せよ」、渡部昇一「保守派をも蝕む<東京裁判遵守>という妖怪」、平川祐弘「皇室と富士山こそ神道文化の要である」・・・といった見出しだけで、おなかいっぱいになってしまう。

こういう雑誌の主な読者は、戦前世代の軍国老人だ。彼らにとっては、いつまでも「東京裁判」や「占領軍」や「平和憲法」が憎く、論壇の主流だった「戦後民主主義」に対するルサンチマンをこの種の雑誌で解消してきたのだろう。編集者は「われわれは右翼思想に共感してるんじゃなくて、大手メディアのすきまをねらってるんです。平和と民主主義は新聞で読めるから、雑誌で書いても売れない」といっていた。

右派誌が一定の解毒剤の役割を果たしたことは確かで、朝日新聞も無条件で「憲法を守れ」とはいわなくなり、岩波書店などの左派論壇は一足先に没落した。しかし皮肉なことに、こうした戦後的な価値が風化するとともに、それを補完する右派論壇の存在意義もあやしくなってきた。もうすきまがなくなった、というかすきまだらけになって、論壇というものが消えてしまったのだ。

その意味では、彼らの嘆く「言論の衰弱」が起こっているのだが、いちばん衰弱しているのは彼らの言論だ。この最終号には「諸君!これだけは言っておく」という、櫻井よしこ、西尾幹二などのおなじみのメンバーによる座談会があるが、中身のない「新自由主義批判」が繰り返され、司会の宮崎哲弥氏は「定額給付金などのバラマキは必要だ」という。何のことはない。左右の万年野党は、市場経済を否定して政府の温情主義を要求する点で一致しているのである。

いま必要なのは、こうした左右の(国家がすべてを解決するという意味での)国家主義の幻想から覚め、人々が分権的に問題を解決するしかないという散文的な現実を直視することだ。そのメカニズムは市場だけでなく、言論の効率的な配分という点ではウェブも重要な役割を果たすだろう。集権的な大手メディアが読者に「正論」を配給する時代は終わったのだ。この新しい現実を理解できない左右の万年野党が墓場に行くのは、祝賀すべきことだろう。




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