主君「押込」の構造―近世大名と家臣団 (講談社学術文庫)
安倍首相の昨夜の演説は、支離滅裂だった。「リーマンショック級の事態は発生していない」と、あっさりサミットでの発言を撤回したのに、増税は再延期する。理由は「これまでの約束とは異なる新しい判断」だという。「安倍一強」が「バカ殿」になってきたのではないか。

幕藩体制では各藩が独立していたので、領主が専制君主のようにふるまうこともあった。たとえば岡崎藩水野家の場合、1737年に水野忠辰は14歳で家督を継いだが、儒学を学んで藩政を刷新しようとし、家臣を無視して下級武士を側近に抜擢した。

今でいえば「官邸主導」だが、これには家老を初めとする官僚機構が反発して業務をボイコットし、一般の家臣団もこれに同調した。孤立した忠辰は側近をすべて解任し、藩政から身を引いて吉原などで遊興に公金を浪費するようになった。これに対して1751年、家臣団は忠辰を取り囲んで大小の刀を取り上げ、座敷牢に押し込めた。

このように家臣がバカ殿を幽閉する主君押込は、記録にほとんど残っておらず、主君が自発的に「隠居」したことになっていることが多いが、慣行としてかなり広く行なわれ、幕府も追認していたと著者は推理している。
専制君主を許さない幕藩体制

shimura主君に対して部下が反乱を起こす下剋上は中世にもあり、戦国時代にはこれによって多くの戦国大名が登場した。これに対して徳川幕府は、全国300の藩の中では君臣秩序を固定し、こうした反乱を禁止したので、押込は下剋上とは違って、家臣が主君に取って代わるクーデタではない。

初期には家臣が藩主を暗殺する場合もあったが、幕藩体制が安定するにつれて家臣が幕府に申し出て、幕府が藩主を処分する事件が増えた。これは「お家の恥」なので、内密に行なわれることが多いが、水野忠辰のように20代で「隠居」したり養子をとって跡継ぎにしたりする不自然な代替わりは、押込に類するものと推定される。

その原因には文字通りバカ殿の不正行為と、改革派の藩主に対する守旧派の家臣の抵抗がある。前者の典型は黒羽藩大関家の事件で、これは藩主に跡継ぎがなかったため養子(増徳)をとったところ、彼が妻を離縁して藩を乗っ取ってしまった。これに対して家臣が増徳に引退を要請し、彼がこれを受け入れなかったため、座敷牢に監禁した。

他方、出羽上山藩松平家の場合は、藩の財政が窮乏化したため、藩主信亨が新法を制定して増税するため検地しようとしたのに対して百姓が一揆を起こし、家中でも新法に反対する動きが強まって新法は廃止された。このため信亨は政治から身を引き、家財を売り払って遊興に明け暮れ、家禄の支払いも滞るようになったので、家臣は信亨を「隠居」させた。

他にも藩主が財政改革をしようとして家臣に妨害され、遊びほうけるバカ殿になって隠居させられたという事件は多い。異なる立場の文書が残っていて、改革だったのか独裁だったのか真相はわからないが、共通しているのは藩主が専制君主になることは許されなかったということだ。

今も続く中心のない「日本型デモクラシー」

この問題については、本書のあとも賛否両論いろいろな説があるが、最終的に執行するときの家老のせりふも「御身持ち宜しからず、暫く御慎みあるべし」などと定型化し、寝込みを襲って大小の刀を取り上げて監禁するなど、やりかたも似ていることから、かなり普遍的な慣行になっていたと思われる。

「お家騒動」と呼ばれているもののかなりの実態は、こういう押込に近いものだったと思われるが、最終的には幕府が介入するケースも多い。君臣秩序から考えると一方的に家臣が処罰されそうなものだが、意外に幕府も(クーデタに発展しない限り)家臣に正当な理由があるときは押込を黙認する場合が多かった。

ここには儒教的秩序と(丸山眞男のいう)日本型デモクラシーの違いが鮮明にあらわれている。儒教では皇帝(天子)は絶対であり、その命令を拒む者は(たとえ正当な理由があっても)殺される。天子が「天理」に反する場合は、易姓革命によって国家秩序そのものをくつがえさなければならない。

これに対して日本では、天皇はそういう実権をもってはならず、家臣の「みこし」に乗っているので革命は必要なく、政権は摂政・関白・将軍などの家臣団の合意にもとづいて運営される。この意味では、天皇家は7世紀の天武天皇のころを最後に、押し込められたまま、名目的な君主の地位を維持してきたと考えることもできる。

室町から戦国時代は、日本の歴史では例外的に下剋上という「革命」が頻発した時代だった。それがヨーロッパのような大規模な内戦に発展すれば、国家を統合する絶対王制が生まれたかもしれないが、幸か不幸か内戦は1600年で休戦状態になり、そのまま戦国時代の秩序が「凍結」された。

これを一知半解の儒教的秩序と接合したのが尊王攘夷であり、その後の明治政府の混乱の原因も「古層」に定着している日本型デモクラシーと実定法の儒教的秩序の矛盾によるところが多い。この混乱は今も続いており、安倍首相のように強くなりすぎると危ないというのが、歴史の教訓である。