武士道の精神史 (ちくま新書1257)
新渡戸稲造の『武士道』は、アメリカ滞在中に日本語の文献を参照しないで英文で書かれた日本文化論で、「武士道」は彼の造語である。江戸時代以前に武士道という言葉を使った文献はほとんどなく、その元祖とされる『甲陽軍鑑』ではまったく違う意味である。

16世紀に成立した『甲陽軍鑑』は兵法の書であり、武田信玄とその家臣の戦いを記述してその敗因をさぐり、武士の心得を書いたものだ。ここには新渡戸のような精神論はなく、戦争においてどう戦うべきかという具体的な戦時訓が書かれている。

ここでは武士道とは、勇猛果敢に戦う武術のことで、武士をささえるエートスは御恩と奉公だった。これは在地領主として出てきた武士が、主君を中心に戦って領地を守り、戦い取った領地を臣下に与える契約で、一方的な主従関係ではない。戦場では主君が命令するが、平時には臣下が主君に「諫言」することが奨励された。

主君より「家」を大事にするエートス

江戸時代には武士は実務官僚になり、兵法としての武士道は不要になった。「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な『葉隠』は「死の美学」ではなく、18世紀に書かれた「治者」としての武士の心得だ。

著者の山本常朝は一度も戦争に出たことがなく、『葉隠』のテーマも佐賀藩・鍋島家の家訓のようなものだった。このように武士道という言葉は、特殊な文献にしか出てこない。『葉隠』は禁書で明治時代まで知られなかったので、武士道が一つの倫理として武士に共有されたとは思えない。それは新渡戸が比較したヨーロッパの騎士道とは違うのだ。

ただ「武士のエートス」と広く解釈すれば、武士道に実態がなかったわけではない。それは徳川家が「幕府」という言葉を使わなかったからといって、徳川幕府が存在しなかったわけではないのと同じだ。そのコアにある概念は「家」であり、行動規範は「名を惜しむ」とことだ。

この場合の「名」は家の名誉であり、それは主君を超越した実在である。家の持続性を守ることは武士のもっとも重要な義務とされ、主君が家の存続をおびやかす(と家臣が判断した)場合には、主君押込というクーデタも正当化された。

おもしろいのは、新渡戸が『武士道』で挙げているのが、学問的な文献ではなく『忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑』などの歌舞伎や文楽であることだ。ここにも武士道という言葉は出てこないが、「忠義」や「誠」などを示すエピソードはたくさん出てくる。彼はこうした民衆文学の中に伝えられている武士のエートスを彼なりに外国人向けにまとめたのかもしれない。