通じないといえば

 ほいでも個別に書かないのだけどね。
 通じないA派とB派があった場合、というかそういうのはありがちなんだけど、ほいでこれが対立するとする。で、この場合、A派の世界、B派の世界、と傍観者の世界というかまず3つあってネットだと云々というのはある。それとネットだとこの世界の対立に工作とかあるし、ああ勘違いもある。
 で、なんつうかワタシ的にはそうした3極性というのはけっこうどうでもいいんですよ。もちろん私だってある見解を持つからA派であったりB派であったり傍観者であったりするわけだけど、重要なのは、私と公の二項の垂直関係ですよ。
 「公」の関係において、A派とB派が許容かどうかが「私」に問われるわけで、その問いかけから越えて、派の争いというのは、それぞれのプライベートというか党派の問題になる。
 だめだめなのは党派の水準が「公」になると思っている香具師が大杉。
 次にだめだめなのは「公」が「正義」とか勘違いしている香具師。
 「公」というのは基本的に妥協なわけですよ。最低の許容性。どこまで自由がそれぞれ公認できるかということ。
 派的議論が「公」に問われるのはその最低綱領でしかありえない。トイレの外でウンコするなよ(でも下痢だったんだよ看病してくれよじゃしかたないか)的。そこを確認したら、あとはほっとけ、通じないな、で終わる。
 っていうか、終われよ、と思うのだけどね。
 あと、「公」というのは実際には手順なんですよ。連携プレーだから。馬鹿が一生懸命集まって妥協で生きていく場を支えるのが「公」なわけで、最初からフールプルーフな手順として問われなくてはならない。
 だから、フールプルーフな手順が問われないで、「こんなこともわかんないの馬鹿」というのはだめだめ。まあ、私もけっこうそれげなことを言うのでだめだめだけど。
 じゃ、どうなのさ、というのを手順で、馬鹿でもフォローできるように提示されない議論はスルー以外にどうすりゃいいのさというか、「公」の場ではですね。
 利口なやつはその派閥のなかでたーんと議論でもして死闘でもすればいいけど、「公」とはまるで関係ない。「公」に関係なければ、「私」に問われるところはゼロだと言ってもいい。
 あとついでに言うけど、「公」というのは「国家」とは直接関係ない。まあ国家なんか、夜回りとゴミ収集以外に出てくるとろくなことがない。