私は自殺というのは概ね運命だと思う

 自殺には、死もそうなのだが、2つの相がある。私が自殺するか、私ではない誰かが自殺するか。
 もちろん、その中間、私が大切な人が自殺する、というのがあり、それが実は一番大きな問題だし、残された人にとって傷をもたらす。その意味で、たぶん、自殺というのはそこが問題なのだろうと思うが、そこは、あえてここでは書かない。
 私が自殺するについては、少しわかったことがある。というか、あまり一般化はできないのだが、3つ。静かに自滅するか、意図として死ぬか、あるいは内的には殺されるか。その3番目が大きな問題で、かなりの多数の自殺が、実は内的には、殺されているのだろう。死にたいという欲望というように「私」の「欲望」としては現れないある他者性なのだろうと思う。(意識内が他者性に分裂して死を命じているような状態。)
 その意味で、私が自殺するかしないかは、私のなかで死を誘発するような意識性を他者として疎外させるかどうかにかかっていると私は考えるようになった。死も弱さも絶望も、みな私であり私にとって愛おしいなにかとして共に生きていくべきだろう、と。(死を命じる意識のなかの他者性を作らないようにする。)
 他者の自殺については、概ね運命だと思うようになった。くどいが、他者の自殺というのは、私がどう関わるかだけが問われている局面の問題でもあり、「死ぬな」とか「死もありだよね」とかどう言うかはただ立ち位置だけの関数に思える。というか、その立ち位置から言葉や議論が離れるなら、私にはあまり関心をもたない。
 私の好きな文学者というか思想家というか幾人かは自殺した。あるいは自滅した。知れば知るほどそれは運命だった、避けがたいものだったというふうに思えるようになった。ただ、歳を取ってみると、私の今の歳、49歳だが、そこまで達せず自殺した人間については、もうちょっと生きてみるとよいのではないかとは思うようにはなる。
 邱永漢だったか、人間はかなり無茶をしても50歳くらいまでは生きられる。というか、無茶をして50歳で自滅するというのはひとつの生き方としてしかたのないものだろう。
 私も40代中で、こりゃもう私は終わりだなと思ったことがあった。実際、その時、事実上なにか人生は終わったのであり、まあ、その後も生きているし、生きているなら、幸せに生きているし、旨い物とか食っているとけっこう幸せだし、率直にいって、ネットになんか書いているのも幸せの部類だと思う。
 まあ、50歳まで生きてみるのは面白いことだとは思う。ぶいぶいしていた若い人間も、ほぉ、人間というのはこうして老いてぼろぼろになるもんだというのは、一興といえば一興だし、所詮、そんなものでよいでのはないか。