ブログのこと

 最近は特定のエントリに想定した以上のアクセスがあることがあり、まあ、そんなものかと気にしないでもいいのだが、いつも読んでくださる読者層を超えたところで読まれるというのはちょっとつらいものがある。
 もともと私など社会の屑というかゴミというか以下略どうでもいい存在で社会的にはどうでもいいことを書いている。というか、小さく通じる部分だけでいいと思う。多面的な読者にはなかなか答えきれるものではないし、当然想定していない誤解もおきるだろう。
 幸いにしていわゆるネットイナゴに遭遇したことはないが、そうなる可能性はいつでもあるんだろうなと思う。
 昨日の大石先生のエントリで。
 ⇒大石英司の代替空港: 王様と乞食

 最近、私はブログへの情熱を喪失しつつありまして、理由は、田中失脚という形で、ここ6年間の作業の結果をひとつ出したということで、達成感を得られた。現状でも、日毎で読者が増えていき、コメント欄もそれなりに読まれているわけですが、当然客が増えれば、客のレベルを問えなくなる。

 読み手が増えるにつれ、エクスキューズをしなきゃならない、あるいはエクスキューズを与えてもなお、話が通じない人々というのは、一定数必ず残るんですね。万人を説得するのはナンセンスだし、そもそもが予定調和で書いているわけでなしで、普段ならしょうがねぇな……、で済むけど、忙しくなると、ちょっとうざったくなる。
 でも言論人は逃げちゃならんわけです。反論や批判を受けて立たなければならない。しかしその体力も無限じゃない。何より、ネットの現状というのが、明らかに私が夢見ていた状況と違ってきている。冷戦に勝利して、やっとみんなで平和を謳歌出来る時代が来ると思ったら、いつの間にか非対称戦が始まっていた。

 大石先生らしい口調はユーモアのうちとして、このキーとなるのは「言論人」ということなのだろう。大石先生は言論人であろうと思う。
 顧みて私は言論人ではないな。なにが言論人かという問題もあろうがそれが死活問題というか生活問題であることは重要な条件ではないか。私はその条件を満たしていない。
 うまく言えないが、私はただのブロガーであると思っているし、ただのブロガーってどういうことなんだろとブログをしつつ考えている。よくわからない。が、大石先生の現状認識ではないがそれが成立しえない水準というのはあるのかもしれないし、そのあたりがすっこむ機会になるのだろう。
 よくわからない問題だが。