天皇の苦悩

 読んだ⇒孤流天路 - たかが天皇
 君主が立憲政においてどうあるべきかは、へぇと思うほど同意見なんだが、後半、天皇の苦労というところが、違和感というのでもないが、なんとも奇妙な感じがした。Mr_Rancelotさんとの歳の差かもしれない。というのも、私も若いころそんなふうに考えていたようにも思う。
 天皇はご苦労されたか?
 Mr_Rancelotさんの言われる文脈は正しく、庶民の苦しさに対して天皇は苦労されているわけではない。
 が、と。
 ここで「が」が出る。
 誤解されやすい言い方というか微妙なんだが、昭和天皇及び今上は私の君主なんで、現代日本において臣下という言葉は死んでいるし意味もないのだが、ある敬意の影のようなものは、臣下と君主の関係をおびる。その関係性の陰影では「苦労」というものの位相が変わってくる。
 こういう切り口に変えるとかえっていけないのかもしれないが、なぜ美智子妃はそこまで苦悩されなければならなかったのか。雅子皇太子妃にも言える。あの苦悩は、昭和天皇の苦悩と完全に区別されるものではない。
 人間が個人であり自由であるというのが最初の原則であれば、皇室の方たちをもっと解放してあげなくてはならないのだが、現実問題として、そういうことにはならない。というか、そうさせない現実だけが、日本の歴史の重みに耐えている、という現実がある。
 このやっかいな共犯というものが、日本を形作っているし、呪縛しているとも言える。あるいは、それこそが日本国民の国民を統合させている何かであるようにも思える。両義的なものだ。
 柄谷行人的に言えばそれが日本的な自然生成としての天皇制とかいう議論になるだろうし、浅田彰なら土人とか言うのだろうと思う。違うか。いずれにせよ、制度としての天皇制というふうに論じるのではないか。そう論じられることで、制度として言葉の像とされ思索されることで対象であるかのように見える。憎悪であれ、軽蔑であれ、近親感であれ、忠誠であれ。
 だが、私にとって、今の思索の課題は、「天皇制」ではなく、天皇が背負い込んだこの重たい共犯という、私の内部の関係性だ。その歴史性のどよんとしたリアリティだ。あるいは、優しいリアリティでもある。私は今上にこれっぽっちも私心を思わぬ。
 私にとっては、「天皇制」やあるいは個々の天皇、という対象措定そのものが、どこかしら欺瞞に思える。欺瞞というのは、そういうふうに分離できる「私」なるものを、私は信じえないことによる。
 ちょっと、むっかしい話っぽくなったが。