不覚にも又ワロタ

 ⇒思想誌:創刊ブーム 「批評空間」終刊の空白埋める?−学芸:MSN毎日インタラクティブ

 昨今の共謀罪や靖国問題を巡る議論を見ても思うが、ある意味、今ほど「左翼」の存在が重要なときはない。だが、冷戦終結で左右の枠組み自体が崩れ、古い言い方をすれば世界的な「右傾化」が進んでいる。今は、産業革命以降の西欧文明が培ってきた思想的座標軸自体が失効した時代と言ってもいい。
 そんななか、旧来の左翼的旗印に頼る機会すらなかった30代以下が、こうした雑誌を出すのは正常な動きとも言える。ただ、どうも思想の過激さを競う方向に行きがちな点が気になる。
 今なすべきは、安易な思想の紹介や実践ではなく、西欧文明の行き詰まりを根底から考えて「現代のビジョン」を作ることだ。それは、ドイツ観念論の成立ぐらいスケールの大きな取り組みだろう。こうした作業を地道にやるしかないことも知っておいてほしい。

 ウッキー
 「西欧文明の行き詰まり」かよ。
 小熊英二あたりが、戦後思想のなかの吉本隆明を滅菌・スルーしたので、振り出しに戻るみたいな感じっていうか(鶴見俊輔はやんわりとそのあたりを諭していたのだが)。
 吉本の総括がきちんと出てこない点も問題だが。っていうか、吉本終了万歳っていうことでしょうかね。あはは。じゃ、ねーか。総括はあるにはある。橋爪でも中沢でも、その前なら竹田にも。ただ、それらの言葉が現在の言葉と断層を起こしている。
 というか、常に吉本が先頭に立ちすぎて、その解釈者たちが老人になって、し・も・た。
 ポイント的には、60年代安保(+革命の可能性)と70年代安保(+市民主義)の落差だろう。エポック的にはハンガリー革命(動乱)と日共の問題から新左翼が出てくるあたり。明確な構図はベ平連と吉本主義の対立みたいだが、小熊イズムはそのダイナミズムがすこーんと消えている、ってか、遡及してハンガリー革命の考察も抜けている……と思うが最近はなんか言っているのかな。
 ⇒ハンガリー動乱 - Wikipedia
 意外と↑がよく書けているじゃん。ただ、そこから東欧革命への経緯がうまく、日本の、本来の左翼思想のなかで咀嚼されていないというか、振り返るに、ここで吉本隆明はある程度仕事していたのだが。
 ⇒東欧革命 - Wikipedia
 いわゆるリベラルにしてみると、この流れは、民主化、とかになり、ハンガリー革命をスルーした小熊イズムなんかとぬるぬるで民主化と一緒になったら、酸鼻かも。
 あ、ついでに。
 ドイツ観念論とかいうなら、きちんとカント嫁鴨。
 ⇒ドイツ観念論 - Wikipedia

なおカント自身がドイツ観念論に属するかどうかは、研究者により見解が分かれるが、カント哲学とドイツ観念論を分けて考える学者が多い。その根拠は、あるいはドイツ観念論に含まれる思想家がカントとはその時代に哲学的に対立関係にあったという哲学史的な事情、またカントが認識理性の対象ではないとした神(物自体)が、ドイツ観念論では哲学のもっとも重要な主題であり、知の対象とされる両者の哲学上の立場の違いに求められる。一方、カントにおいても物自体は実践理性の要請であって哲学体系の中におかれており哲学の主要な主題であること、さらにはドイツ観念論の主要な論者はカントから出発して自己の体系を構築したことを重視し、ドイツ観念論の初めにカント(のコペルニクス的転回以降)をおく哲学史家もいる。これに対してドイツ古典主義哲学は、カントとドイツ観念論の連続性を重視し、カントを含む呼称である。

 ぶっちゃけ、いわゆる思想史的なドイツ観念論から出発するのではなく、カント再読のなかでカントの豊かさとその可能性の再認識から、ドイツ観念論からヘーゲル・マルクス的な流れを再考しないとあかんのでは以下略。