クリスチャンであることというのは……

 社会の建前とその人の生涯の意味というのでは違う。たぶん、その人の一生のなかにイエスというものが表れているなら、その生涯の終わりをもって彼/彼女はクリスチャンであったことだろう。もっとも、そういう見方を私は人と共有しようというわけでもない。
 人の一生のなかにイエスが現れる。刻印のように現れる。そういうことがある。そういう奇跡のような人がいるということはイエスが復活したという神話的な理解でもあるだろう。なぜそんなことが起こるのかわからないし、おそらくそれは個々人の内面の信仰やその手だてとはまったく異なるなにかなのだろう。
 その意味で。
 洪思翊はクリスチャンではなかったか。少なくとも私の生涯のなかに見える彼の姿は、歳を取るにつれて、イエスのそれと重なっていく。彼は語らず、我々の罪を負って、この世というものに処刑された。
 もし、神というものが存在し、それが義であるなら、なぜ神は洪思翊を捨て置いたのか。人生とはそんなものだと私はよく言うし、私はそれを処世のプラクティカルなコンパスとしている。
 むしろ、逆に、洪思翊の義を捨て置かない人が現れたらどうであろうか。なにがその人をその行為に立たせたのであろうか。