織田秀信(おだ・ひでのぶ 1580~1605)は、日本の戦国時代の武将、戦国大名である。
あの織田信長の孫であるが、元服後の名前はあまり有名ではなく、幼名の「三法師」の方が有名である。しかしかわいそうなので当項目では「秀信」で統一する。
羽柴秀吉に担ぎ上げられた存在ではあったが、成人後の容姿は若き日の信長によく似ていた、などの逸話も残る。
1580年(天正8年)に織田信忠の長男として誕生。母親は不明。(塩川長満の娘、森可成の娘など諸説あり)
当時、織田家は凄まじい勢いで領土を拡大し、1582年には天下統一をほぼ完成させていた。しかし本能寺の変が発生し、織田信長と織田信忠が死去。このとき数え年3歳の秀信は前田玄以らに保護されて清洲城に移り住んだ。
明智光秀死亡後、柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興、丹羽長秀らによって織田信長、織田信忠亡き後の織田家を決める会議が行われた(清洲会議)。会議の内容には諸説あり、現状それを確定することは出来ないが、織田秀信こと三法師が当主に就任し、織田信雄、織田信孝、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興ら織田家の重臣一門、そして同盟者である徳川家康らが織田家を支える形で補佐する、という決着を見たようである。
しかし、織田信長と織田信忠が突然死去したこと、秀信自身が3歳であることが災いし、織田秀信は当主たる遂行力や地盤を全くと言っていいほど持っていなかった。味方といえるのは傅役の堀秀政らくらいであり、おまけに幼少ということを考慮されて直轄領は坂本3万石程度であった。結果的にこれが織田家の権力闘争を制御できなかった要因となる。
結局、織田家は重臣や親族を巻き込んだ対立が発生し、織田秀信はそれに対して何も手を打てなかった。そして賤ヶ岳の戦いと小牧長久手の戦いを経て、羽柴秀吉が織田家の筆頭重臣として、当主を凌ぎうる莫大な権力を手にする。1585年には秀吉が関白に任命され、名実ともに朝廷から天下人後継と認識された。この頃秀信は幼少であり、岐阜城、安土城、坂本城と移されていた。
1588年、秀信は9歳で元服。が、すでに秀吉は関白となって天下に強大な勢力を築き、さらに朝廷から「豊臣氏」を賜り、藤氏長者として藤原摂関家の力をも掌握するという状態であり、織田秀信が信長の後継者として天下人となるのは夢のまた夢であった。
とはいえ、豊臣秀吉含め諸将からきちんと認知されてはいたらしく、元服早々聚楽第の行幸における天皇警護を任せられている。当時は家単位で物事が動く社会ではあったが、周囲から「信長の後継者」と認知されていた秀吉としては、秀信をぞんざいに扱うわけにはいかなかったのだろう。秀信はわずか9歳にして従四位下・左近衛権少将という官位を授与された。
1592年、織田秀信は朝鮮で没した豊臣秀勝の後任として美濃の岐阜13万石を得る。翌1593年には秀吉から羽柴姓を与えられ、従三位・権中納言に任命されて岐阜中納言と呼ばれるようになった。この時期の秀信の地位は徳川家康(内大臣)、前田利家(権大納言)に続く3位であり、唐入りにおける明の講和使者に対して秀吉、家康、利家とともに応対したという話が伝わっている。文禄の役では約4000を率いて渡海。なお文禄元年における秀吉の書状によると、唐入りが成功した暁には織田秀信に朝鮮を与えてその王にするという構想があったらしい。
自領地での政治においては概ね織田信長の政治体制を踏襲し、善政であったと伝わる。この時期にキリシタンにもなった。また蒲生氏郷、織田信孝、豊臣秀勝らの旧臣を多く召し抱え、その基盤としている。
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは西軍に加わった。一説には石田三成から尾張美濃の加増を打診され、
織田家復興を考慮して西軍についたと言われている。しかし教如の帰洛に反対する三成に反発してそれを助けたという逸話もあり、西軍首脳の言われるがままというわけではなかったらしい。
しかし東軍主力は西軍の想定より迅速に帰還。織田秀信は東軍先遣隊の池田輝政、福島正則らと城下米野で戦い、善戦するも敗北。やがて付近の城を落とされ、降伏した。池田輝政が前岐阜城主であり、城内を把握されていたことも一因であったという。降伏後に家臣達の感状を一枚一枚書き連ねたことが福島正則の心情に触れ、福島正則が織田秀信の助命を嘆願したと言う逸話もある。
西軍についた罪により織田秀信は改易を言い渡され、高野山に住む。しかし祖父の信長が高野山と対立していたことを理由に、1605年、高野山を追放されてしまった。汚いなさすが坊主きたない
その後まもなく病死した、地元の娘と結婚して長生きした、陸奥棚倉に領地を得たなど、様々な話が伝わっているが、公的史料に織田秀信の名が見えるのは1605年が最後である。
彼は登場が遅い&寿命が短いため1595年前後からの約10年ぐらいしか活動できない。シナリオや本能寺の変のイベント次第では大名(3歳)といった形で登場することも。関ヶ原関連のシナリオでは、美濃一国しか持っていない小大名なのに寿命が残り5年という緊急事態となり、難易度は非常に高い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S2) | 戦闘 | 60 | 政治 | 71 | 魅力 | 92 | 野望 | 77 | ||||||
武将風雲録(S2) | 戦闘 | 50 | 政治 | 57 | 魅力 | 72 | 野望 | 31 | 教養 | 67 | ||||
覇王伝 | 采配 | 72 | 戦闘 | 50 | 智謀 | 27 | 政治 | 57 | 野望 | 31 | ||||
天翔記 | 戦才 | 120(C) | 智才 | 54(C) | 政才 | 124(B) | 魅力 | 84 | 野望 | 33 | ||||
将星録 | 戦闘 | 48 | 智謀 | 40 | 政治 | 60 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 47 | 戦闘 | 16 | 智謀 | 32 | 政治 | 51 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 35 | 智謀 | 11 | 政治 | 43 | 野望 | 49 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 35 | 知略 | 10 | 政治 | 44 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 32 | 知略 | 10 | 政治 | 44 | 教養 | 23 | ||||||
革新 | 統率 | 36 | 武勇 | 34 | 知略 | 12 | 政治 | 49 | ||||||
天道 | 統率 | 36 | 武勇 | 34 | 知略 | 12 | 政治 | 49 | ||||||
創造 | 統率 | 38 | 武勇 | 45 | 知略 | 24 | 政治 | 50 |
掲示板
49 ななしのよっしん
2023/12/16(土) 08:29:08 ID: vjDcodjHIE
すまん繰り返してる。記憶力が弱いしどうにも気になってるんだろう。
50 ななしのよっしん
2023/12/26(火) 17:53:26 ID: 2SEVHODvEC
>>43
そういうふうに頭を下げなかった秀頼はアホだった論の人ほど、なぜか徳川慶喜の行為は罵倒するから不思議
旧ツイッターとかでそういう人をやたら見かける
51 ななしのよっしん
2024/05/03(金) 16:37:41 ID: BVR6S4jxxF
武家の貴種であり濃尾では神輿になれる織田秀信が、毛利先遣隊と合流できれば一気に濃尾衆を糾合できる展開もありえたんじゃないか
毛利水軍も伊勢湾に来て東軍方の水軍を追い込み始めた時期だったし
岐阜攻めやって脳筋扱いされた福島正則や池田輝政たちだが、濃尾の情勢に詳しく秀信・毛利先遣隊の協力を阻止するために、拙速と非難されようが速攻を仕掛けたのではなかろうか
権威(秀信)が実力(毛利先遣隊)まで得て美濃を席巻したら、次は織田毛利軍と毛利水軍が尾張へ攻め込む最悪の展開が待ってるからな
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
最終更新:2024/12/23(月) 14:00
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