畠山稙長 単語

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ハタケヤマタネナガ

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畠山稙長1504?or 1509?1545)とは、戦国時代の武将である。
なお、生年であるが、前者は『足利季世記』に42歳で死んだとあるのみ、後者は『守記』の永正7年(1510年)4月29日に2歳とあるものだが整合性についてはまだ考されてないというもの。

概要

畠山尚順息子細川高国ファンクラブ終身名誉会長

足利義稙ファンクラブ終身名誉会長めいた父親を追い出し、両畠山氏を筆頭にした畿内の抗争に新しい体制を築こうとするが、様々なことに振り回された苦労人。

ここまでのあらすじ

畠山政長明応の政変で失った政長流畠山氏だったが、畠山尚順は、クーデターを起こされた側だった足利義稙を生涯支援し続け、永正の錯乱の後に足利義稙復帰とともに、細川高国大内義興畠山尚順畠山義元の4人による体制を構築した。

一方、永正7年(1510年)頃より、畠山寿丸ことこの記事の畠山稙長が軽微なことに関しては代行を始め、畠山尚順は領地経営に打ち込み始めた。河内の正当な権力が、足利義稙の復権に伴い、政長流畠山氏により戻されたのである。つまり、これまでの京都河内の誉田・高屋軍事的対立から、淡路波が敵対者に変わり、京都の防衛ラインも全く変わったのである。

という経緯から、畠山尚順は、南近畿を安定化させる必要に迫られた。この中心人物が、大和堂山熊野衆、和泉上守護に送り込んだ息子細川宣であった。一方、遊佐順盛を筆頭にした旧来の臣団が、畠山稙長の下にいたのである。

畠山尚順の放逐

永正17年(1520年)、畠山尚順紀伊から追い出された。この前提となるのが以下である。

前年の永正16年(1519年)に細川澄元が挙兵し、足利義稙細川高国に同することを選ばず、河内でも義就流畠山氏の畠山義英が畠山稙長を追い落としたのである。とはいえ、この時は、三好之長の敗走もあって、畠山稙長は復帰し、領地再建にあたった。

ここで、堂山切腹に追い込まれる。直接的な経緯は紀伊の湯河氏との抗争による敗北だが、実は大和のほとんどを敵に回していた堂山は、人一を招いて孤立し、その調停に細川高国・畠山稙長が駆け回っていたのであった。

つまり、父親の側近がやらかして死に追い込まれ、その調停を自分と重臣の遊佐順盛で成功させたのである。ここでもはや父親は用済みとなり、以後永正十七年体制と呼称させる畠山稙長のレジームが築かれた。

永正十七年体制の崩壊

大永元年(1521年)に足利義稙細川高国の反発から淡路に出奔。父親畠山尚順もこれに同して、名実ともに畠山稙長が政長流畠山氏のトップとなった。畠山尚順は、ここで領に戻るために紀伊にたびたび侵攻し、本来的である畠山義英とも手を結ぶ。この裏に、一向宗もいたような気もするが、はっきりとしたことは言えない。

一方、細川高国は、足利義晴を新しい将軍とした。こうして、足利義稙営は特に成果をあげないまま、足利義稙畠山尚順の両名が亡くなっている。

ところが、細川高国中の閥抗争で細川尹賢をとり、香西元盛を切り、その兄弟波多野元清柳本賢治が離反。四国勢が上陸し、いわゆる「方」が成立する。ただし、畿内南部に関して言えば、大和越智勢が義就流畠山氏の畠山義堯と手を結び、大和人一がおそらく崩壊したこと、また一向一揆とも連携したことも重要である。

つまり、畠山稙長が畠山尚順を追い出して以来権力基盤となった同盟者・大和の一が解体してしまい、敵に囲まれて弱体化までしてしまったのである。

ただし、細川晴元の侵攻に対し、畠山稙長は畠山義堯から領を守れたようで、京都に戻った足利義晴に合流する。かくして、細川高国三好元長らの進めた和読みになったのだが、方内の路線対立で三好元長が排除され、これは失敗する。畠山稙長ら足利義晴側の武将たちも帰した中、細川高国は孤立し、落していった。

この一方、大和柳本賢治があっけなく手中に収める。畠山稙長は彼の侵攻に押され、和の結果誉田(もしくは高屋)を退き、金胎寺に入った。

しかし、細川高国営もしぶとく、方側との抗争は着状態になった。ところが、享4年(1531年)、大物崩れで、細川高国自害。畿内は新しい状況に陥る。

一向一揆との相克

畠山義堯木沢長政が対立し、細川晴元木沢長政に味方し、彼に一向一揆を味方させる。この一向一揆によって、畠山義堯三好元長が殺され、方・足利義維四国に落ち延びていった。

ところが、本願寺と細川晴元の対立から、六角定頼と法が山科本願寺を攻め落とす、文法が生じる。この流れで、文3年(1534年)頃から、畠山稙長は、一向一揆と手を結ぶ。ただし、政長流畠山氏から彼は排除されており、足利義晴細川晴元の和を受け入れた、畠山長経・遊佐長教両名にトップが代わっていたのである。畠山稙長は、従来の細川高国閥の延長線に、自らを位置付けたのである。

紀州でも遊佐長教と結びついた湯河氏・玉置氏らが、前代以来の宿敵・熊野衆と対立を続けていた。一方で、細川高国残党も、細川晴国と畠山稙長が引き続きまとめていた。なお、これに盛大に噛んだのが、尼子経久である。

細川晴国の戦死後、細川氏綱細川国慶らを率いていた。加えて畠山稙長も、湯河・玉置らと、熊野衆の関係を周くしようとした。加えて和泉細川元常系統の細川五郎が守護となり、配下の松浦守レジームを築いた。これは要するに細川晴元方であり、細川氏綱方に後に離反する玉井三河守といった面々が、畠山稙長と関係を続けていったのである。

細川高国残党・畠山稙長の最後

細川晴元営で、木沢長政が反乱に追い込まれた。畠山稙長は根来寺・高野山等を率いてこれの追い落としに加わり、大平寺の戦いで木沢長政が死ぬ。かくして、畠山稙長が久しぶりに高屋に復帰した。

一方、和泉では松浦守突然居する。おそらく木沢長政に同調していたようで、畠山稙長は和泉守護代になったと思われる玉井三河守らと同調して、松浦守を攻めていく。大和筒井山といった勢力もこれを支持していたし、遊佐長教も結局元に戻っていた。

木沢長政の乱の後に攻撃していた飯盛も落ち、松浦攻めとなったタイミングで、細川氏綱起した。松浦守に対抗しようと一気に決着を付けようとした、玉井三河守は、細川氏綱につき、細川晴元松浦守に味方してしまう、結果、畠山稙長は行動自重し、3かであっけなく細川氏綱落してしまう。

畠山稙長は、以降も遊佐長教の取り込み、安見宗房頼らの登用、越中とのかかわり等を進めていくが、文14年(1545年)にあっけなく死んだ。彼の後継者は能登畠山義総から迎える話もあったがポシャり、畠山が跡を継いでいった。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける畠山稙長の力一覧。

実は結構出ている。列伝は案の定、ほぼ捏造

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 - 政治 - 魅力 - 野望 -
武将風雲録(S1) 戦闘 - 政治 - 魅力 - 野望 - 教養 -
覇王 采配 67 戦闘 48 智謀 21 政治 47 野望 39
天翔記 戦才 96(B) 智才 52(C) 政才 114(B) 魅力 67 野望 38
将星 戦闘 - 智謀 - 政治 -
烈風 采配 - 戦闘 - 智謀 - 政治 -
世記 采配 26 智謀 30 政治 61 野望 50
蒼天録 統率 22 知略 42 政治 45
下創世 統率 - 知略 - 政治 - 教養 -
革新 統率 - 武勇 - 知略 - 政治 -
統率 41 武勇 57 知略 43 政治 63
創造 統率 53 武勇 58 知略 47 政治 64
大志 統率 52 武勇 57 知略 49 内政 63 外政 55

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