「氏家定直」(うじいえ・さだなお 1504 ~ 1570)とは、最上義守に仕えた武将であり、
義守政権の宿老で第一の重臣
にあって、最上義守と最上義光による親子喧嘩の仲裁に定評のある執事長。
「氏家」氏は、藤原北家宇都宮氏の流れをくむ斯波兼頼の執事として、共に奥羽に下向し、最上家の執事として代々仕えた重臣の家系で、はじめ最上義定に仕えて「定」の字を拝領し、氏家定直をなのって最上家に仕えた。
最上義定が伊達稙宗にフルボッコにされた後、後継者のいないままに早世すると、一族の中野氏から後継者に入った当時2~3歳の最上義守に仕えた。
最上義守が元服し、二十歳を過ぎたあたりから重臣として頭角を現した氏家定直は、伊達稙宗と伊達晴宗の後継者争い「天文の乱」に乗じて、先代がフルボッコされて以降従属状態にあった伊達氏からの独立を画策し、最上義守の名代として伊達稙宗に味方して伊達晴宗領へと攻め込み、最上家念願の独立を果たすのに尽力した。
その後は、伊達氏との交渉役を担当する等、最上義守の執事長として働き、最上義守の子・最上義光が家督を継いだ際に、家臣団が義守派と義光派に分かれて対立し、最上義守と最上義光親子が仲良く喧嘩する状態にまで発展すると、生死の境を彷徨うほど重病に冒された体をおして
親子の争いをおやめください。
最上家は義光様に任せるのが一番です
と、最上義守を諌め、最上義守を隠居させて、家中を最上義光を中心にまとめる事に尽力した。
息子とあらそってまで最上家の政から離れたくなかった最上義守は、このときの氏家定直の諫言を、
さて、こちらの方では、氏家が生死のさかいにある刻に意見してくれたので、いろいろ問題はあっても親子和解したところだ。
まずは目出度いこととして良いだろう。
と、不満が無いわけではないが、自らの体を省みぬ氏家定直の諫言に、自らを納得させようとしていた事が解る。
氏家定直の死後は、子・氏家守棟が後を継いだ。
※その他「氏家定直」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
▼息子・氏家守棟と共に閣下こと天海春香が率いる愛度流に降った「閣下の野望」。何このイケイケ親父。
▼息子・氏家守棟と共に教授こと岡崎夢美が所属する蠣崎家に降った「教授の野望」。口上が長い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 54 | 政治 | 65 | 魅力 | 65 | 野望 | 40 | 教養 | 62 | ||||
覇王伝 | 采配 | 65 | 戦闘 | 54 | 智謀 | 42 | 政治 | 65 | 野望 | 40 | ||||
天翔記 | 戦才 | 108(B) | 智才 | 126(A) | 政才 | 140(A) | 魅力 | 60 | 野望 | 41 | ||||
将星録 | 戦闘 | 47 | 智謀 | 73 | 政治 | 70 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 62 | 戦闘 | 44 | 智謀 | 71 | 政治 | 64 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 48 | 智謀 | 68 | 政治 | 58 | 野望 | 60 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 50 | 知略 | 70 | 政治 | 58 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 50 | 知略 | 69 | 政治 | 58 | 教養 | 58 | ||||||
革新 | 統率 | 60 | 武勇 | 42 | 知略 | 77 | 政治 | 70 | ||||||
天道 | 統率 | 60 | 武勇 | 42 | 知略 | 77 | 政治 | 70 | ||||||
創造 | 統率 | 58 | 武勇 | 51 | 知略 | 76 | 政治 | 69 |
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最終更新:2024/12/26(木) 15:00
最終更新:2024/12/26(木) 14:00
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