水野忠重(みずの・ただしげ 1541~1600)とは、戦国時代の武将である。徳川家康の叔父であり、水野信元の弟。水野信元、織田信長、織田信雄、徳川家康らに仕えた。水野勝成は息子
尾張知多郡に領地を持つ、水野忠政の九男として誕生。姉に家康の母親である於大の方がいる。兄である水野信元に従って織田信長に協力、尾張国内の合戦で活躍したと言われている。当時の水野氏は織田(斯波)・今川といった勢力に挟まれており、両方に友好関係を築いていたが、桶狭間の戦いの後一貫して織田信長に味方する。
桶狭間の戦いの後1562年、織田信長と旧今川家臣であった徳川家康の同盟が結ばれた。同盟には水野氏が仲介役を果たしている。この時兄である水野信元のもとを去り、徳川家康に仕えた。三河物語では不和としているが、織田信長や水野信元の意向による派遣の可能性も指摘されている。
徳川家康の家臣となった忠重は、駿河今川攻めや、高天神城・三方ヶ原といった武田信玄との戦いにも従軍した。三方ヶ原では戦功に対する褒美として、兜と鎧を賜っている。ただし、長篠の戦いには前合戦で自身が負傷したこともあり、従軍できなかった。
しかし、1575年水野氏を揺るがす大事件が起きる。忠重の兄でもあった水野信元が、武田家への内通疑惑のために殺害(切腹とも)させられた。この事件は織田家家臣である佐久間信盛の讒言とも、織田信長・徳川家康の利害一致による排除とも言われているが定かではない。水野信元の領地は全て没収され(ただし、信元弟である水野忠守の領地はそのままとなった。そのため、水野氏自体は存続している。)、後任は佐久間信盛となった。
一説には、これが織田徳川に甚大な影響を与えたという説がある。讒言によって水野領を得た佐久間信盛であったが、後年の1580年、自らも信長によって追放処分となった。しかも、その理由が明智光秀からの讒言という。水野信元の内通疑惑が冤罪だったことが、追放の決め手になったとすら言われた。ちなみに、明智光秀の正室である妻木殿の母親が、水野信元の姪であった。
また水野信元は徳川家康の手配で殺害(切腹)させられたが、その時に実行役であったのが石川数正と平岩親吉であったという。両方とも松平信康に親しい人物であった。これが後年、水野氏の出である家康生母の於大の方と、松平信康の確執を生み、やがては信康事件の家中分裂の遠因となった・・・・・という話である。しかし、これらの事柄は全て江戸時代による後世史料が出処であるため、どこまで信用していいかは議論の余地がある。
ともあれ、水野信元の死、その後任となった佐久間信盛の追放により、1580年忠重は織田信長に呼び戻され、信元の旧領であった刈谷城一帯を相続。同時に徳川家臣ではなく織田家臣となった。
織田信長の家臣となった水野忠重であったが、従来通り徳川家康とは親しい状況が続いた。1581年には徳川家康の高天神城攻略に織田家臣として出陣。この時息子の水野勝成が大活躍して、織田信長から直々に感状及び織田家の軍旗である永楽銭を貰っている。なお、この時の忠重の役割としては織田家臣として信長と家康の橋渡しをする、連絡係(軍監・目付)であったとされている。信長の嫡子である織田信忠が武田勝頼の援軍に備えて清洲城に入るなど織田徳川の連携作戦であり、忠重は堅実に信長へ状況報告などをしていたが、息子はヒャッハー戦闘に参加してしまった。
その後、1582年の武田征伐では織田信忠に従軍。戦後甲州仕置をした織田信長を三河でもてなした。同年本能寺の変が起こる。忠重は当時京にいたが、脱出に成功した。この時二条城にいたとも言われるが、実際には市中に宿を取っていたとも言われている。また水野信元の娘婿であった水野守隆が明智方であったため、その口添えとも言われる。前述の明智光秀正室のこともあり、水野氏を考慮したとも言われ、諸説はあるがとりあえず危機を逃れた。
本能寺の変後は尾張を領する織田信雄に仕えた。天正壬午の乱では自ら(あるいは息子の水野勝成)が徳川家康救援のため甲斐に赴く。のちに主君である織田信雄によって、天正壬午の乱は和睦となった。小牧長久手の戦いでは、織田信雄の家臣として息子勝成とともに従軍。とくに長久手合戦で先鋒隊として出陣し、大いに戦功を上げた。森長可を討ち取ったのは息子勝成の家臣と言われている。その後、滝川一益との戦いでも従軍して活躍。
この頃、血気盛んな息子である水野勝成を御せなくなったのか、奉公構(追放)とした(一説には度重なる抜け駆けに加えて、忠重に諫言しようとした家臣を勝成が斬ったためとされる)。その後忠重は織田信雄の重臣として遇され、織田信雄分限帳によると12万石程度の領地を持っていたらしい。その後織田信雄のもとで雑賀攻めや九州征伐、小田原征伐などに従軍。しかし主君である織田信雄が秀吉に危険視されたのか、100万石近くあった領土を一気に改易されると、秀吉直属となった。これにより、領土も4万石、ついで2万石まで減少。
秀吉が没すると、徳川家康に味方する。同じくして1599年に家康が仲介して前年徳川家に復帰した息子勝成と和解。関ヶ原の戦いでは東軍として味方したが、西軍方の加賀野井重望によって暗殺された。一説には西軍加担の打診を断ったためとされるが、諸説あり未確定である。水野家はその後、家督及び三河刈谷を継いだ勝成が備後福山藩を興し、孫である水野勝俊によって隆盛。のちに無継嗣断絶を乗り越えて下総結城藩となった。
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4 ななしのよっしん
2019/05/19(日) 07:02:57 ID: bh05hZO1fn
この人Wikipediaには多くの首級取ってた実績ある名将なのに信長の野望にはかなり初登場が遅いんだよな。織田家の武将じゃ冷遇され過ぎだろう
5 ななしのよっしn
2021/04/28(水) 18:28:07 ID: 47VApXBPrF
能力も中途半端...報われないな。
6 ななしのよっしん
2022/02/04(金) 20:33:08 ID: 9Xt70qhe5T
本来であれば家康への帰属が遅かった勝成ではなく忠重が創成の功臣として称えられてもおかしくないのだが、水野家の立ち位置が微妙だったせいで息子の陰に隠れてしまった不遇の人
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最終更新:2025/01/11(土) 09:00
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