「井伊直継」(いい・なおつぐ 1590 ~ 1662)とは、重装備と重傷に定評のある徳川四天王の一人・井伊直政の嫡男であり、彦根城を築城したにも関わらず、病弱を理由に弟・井伊直孝に彦根藩主の座を譲ることになった上に彦根藩主の履歴を消されて発奮したのか、病弱設定なのに長生きした兄者。
後年は「井伊直勝」を名のる。
井伊の赤鬼と呼ばれた剛毅さと真赤なフルアーマーに定評のある徳川四天王・井伊直政の嫡男に生まれる。
※異母弟は、井伊の夜叉掃部ことレッドブル・井伊直孝(ひこにゃんの人)。
父・直政が、関ヶ原の戦いで鬼島津こと島津義弘の前進撤退にちょっかいを出した際にうけた傷がもとで没した際に、井伊家の家督を継いで近江・佐和山城主となった。
佐和山城は、関ヶ原の戦いの西軍首魁・石田三成の居城で領民にも人気があったことから、江戸幕府の命もあって直継は彦根城を築城したが、鬼の子で夜叉の兄なのに「病弱」と言う設定をもっていた為、大坂の陣の際は病で出陣できず弟の直孝を名代で出陣させたら、彼が木村重成を討ち、長宗我部盛親を破る戦功をあげた為、徳川家康の命により井伊氏の家督と彦根城を直孝に譲ることになってしまった。実際のところ「病弱」は表向きの理由で、直継が家中を統率できなかったことが家康に問題視されたためである。(彦根藩は津藩と並んで畿内に対する最前線の位置づけ。家康も遺言で「国家に一大事あらば、外様は藤堂を、譜代は井伊を先鋒とせよ」と遺しており、どちらも江戸時代を通して一度も転封されなかった。その割には鳥羽・伏見の戦いでどちらも官軍に回ってしまったが。)
上野国の安中藩3万石の大名に国替えとなった直継は、井伊直勝と名を改め、病弱設定をよそに初代大老にまで出世した直孝よりも長命を保ち、73歳で没した。
直継が彦根藩主であった履歴は抹消されてしまったものの、直系の子孫は上野安中藩主→三河西尾藩主→遠江掛川藩主→越後与板藩主として存続した。
※その他「井伊直継」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
病弱設定もあってか、フルアーマーに定評のある赤鬼こと父・井伊直政や、父親似の弟・井伊直孝と違い、戦功に恵まれずに彦根藩を弟に譲ることになった井伊直継だが、彼が彦根城を築城したのは事実である。
その彦根城建設の際に、あとは天守閣のみとなったところでどうにも工事が進まなくなってしまった。
当時はこういった場合は人柱を用いるのが慣例だったが、温厚な井伊直継は、
人柱など立てても、工事が進むわけではない。人命を無駄にしてはならぬ
と言って認めずにいた。
その後も工事が進まなかった為、普請担当者が困り果てていたところ、その娘が人柱になると言い出した。
殿様がお困りの時は、命を捨ててご奉公しなければならない
と娘に言い続けてきた担当者は、娘の覚悟をくんで井伊直継に進言し、井伊直継も
お主の娘の忠心、感じ入った。このとおり、礼を申す
と頭を下げた。
白装束をまとった娘が白木の箱にいれられて人柱として埋められた後は、工事は無事に進行して天守も完成し、現在も残る彦根城が誕生した。
築城の礼をしたいと井伊直継に招かれた普請担当者は、人柱として埋められたはずの娘と再会した。
井伊直継は、本意では、7カ国12(15とも)もの大名が協力した天下普請を失敗させるわけにはいかないが人柱も最後まで良しとせず、娘が白木の箱に入ったところで空箱と入れ替えて埋めていたのだった。
▼彦根城を築城したのは兄貴なんです。(でも彦根藩主からは抹消済)
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3 ななしのよっしん
2010/03/10(水) 02:13:43 ID: BXRA1GRwjl
兄者・・・。゚ (゚ ´Д`゚ ) ゚。
直孝の異例の出世の理由として、
家康の隠し子説、ってのもあるんだよね。
直孝に罪はないけど、
これでは兄貴が病弱設定にされちまうのも無理ないよね。
4 ななしのよっしん
2010/08/23(月) 21:58:22 ID: aKVU5Pwujq
5 ななしのよっしん
2018/07/29(日) 13:47:26 ID: BGu83wdoMd
人柱の話って色々あるけど、実際に生贄にされた記録とか生贄にされた人の遺体を発掘した話は聞かないんだよね
この手の話は日本においてはどれも善政をアピールする創作話だったのかもしれんね
つまり直継公は工事はきっちり成し遂げた上で後世の評判への配慮と操作も怠らなかった強かな名君ということになる
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最終更新:2024/12/28(土) 11:00
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