南泰裕
鹿島出版会、2006年12月、224ページ
ISBN=9784306072558
[書物 2]
その本を手に取ると、今もその奔放な情念の輪郭がくっきりと蘇ってくるほどに、「書を捨てよ、町へ出よう」、というフレーズはひどく魅惑的だった。家を下着のように脱ぎ捨...店、一九八一)所収。*この原稿は加筆訂正を施し、『トラヴァース』として単行本化されています。...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.50-52
[論考]
ローマでの体験 1999年の12月から2000年の1月にかけて、私は仕事の関係でイタリアにおける建築物の保存・修復について調べるためにICCROM(文化財保存修...列/同時進行)、交通ネットワークとしてのトラヴァース(行動/横断/予測不能)、その結節点とし...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.97-105
[建築の還元 1]
1 〈交通問題〉としての近代、および建築 ひとつの表現をなすことの、恐らくはきわめて現在的で共同了解的な認識であるに違いないのだが、長い間、私は自らを建築について語る資格がない、と感じ続けてきた。それは例えば、建築が文化の表象や権力の象徴、あるいは科学技術の現代的表現であるといった記述が、すでに言葉の実効力を失っている...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.2-12
[論考]
新東京タワー計画の経緯 来る二〇一一年、東京東部の隅田川沿いに、高さ六〇〇メートルを超える超高層タワーが建ちあがる計画が進んでいる。東京の再開発として最も注目を集めているもののひとつである、第二東京タワー計画である。未曾有の高みを望むこの新東京タワーが完成すれば、港区に位置する現存の東京タワーを凌ぎ、日本一の高さを持つ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.108-109
[論考]
1 メガロポリスの外部 世界的な人口増加や交通手段の発達などにより、二〇世紀が都市化の世紀となるだろう、ということは、多くの識者によって早くから予測されていた。それらは優れて精確な予測であったものの、一方で二〇世紀の諸思考は、世界が都市化することの意味を、うまく言い当てられずに終わったのではないか、との感触がある...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.109-122
[建築の還元 2]
1 社会的歪像としての建築 建築が、例えば社会といった言葉で代称されるようなシステム(あるいはシステム化された活動の集合形態)をその背後で認識するとき、ほぼ例外なしにそれら両者の関係を問うことが即座に求められてしまうのだが、ここでつねに問題となるのは、建築が社会を代理表象し、かつそのシステムの要請に答えることが、表現と...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.2-12
[対談]
1 コンパクトシティ論の背景 南——最初に、なぜメガロポリスやメトロポリスという大都市ではなく、コンパクトシティやスモール・シティといった中小規模の都市を取り上げるのか、ということから話を始めたいと思います。 僕と太田さんがコンパクトシティについて考え始めたのは、ほぼ三年ぐらい前まで遡ります。その議論も含めて、太...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.58-72
[建築の還元 3]
1 純粋さ、または他者という与件 おそらく多くの建築家や建築をなす者が問うてきたのと同じように、私もまた、「建築にとって何がもっとも重要か」ということを繰り返し問い、考えてきた。この問いはいつも、自身がかかわり、試行している建築的実践への懐疑や内省と交叉するかたちで不意にせり上がり、それぞれの文脈で、おりおりに答えを...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.189-199
[プロジェクト]
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『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.139-154
[プロジェクト]
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『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.89-108
[プロジェクト]
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『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.73-88
[建築の還元 4]
1 判断と知覚、およびその審級 二〇世紀の終わりを締めくくる最後の一〇年は、建築が、レイト・モダンの波をも受けてミニマルなものへの志向を発現させ、ひとつの表現の磁場を作ってきたように見える。それらの多くは、形態上の新しさという可能性を自ら断念し、プライマリーな立体のみを空間の母胎(マトリクス)として抽出し、皮膜としての...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.210-220
[論考]
「私」の複数性 ここ近年の、メディア・テクノロジーの進展と変容によって、わたしたちのコミニュケーションのかたちは大きく変わったように見える。あまりにも手垢にまみれた記述だが、それはおそらく事実だろう。電話、ファックス、電子メール、携帯電話、携帯メール等々。コミニュケーションのチャンネルが豊富化し、それぞれに異なったコミ...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.145-157
[批評]
自覚的に、というよりは自意識的に、と記述する方が正確なのだが、批評という形式のもつ危うさと困難さを最もきわだった形で素描し続けたのは言うまでもなく小林秀雄である。批評家は作品を前にして怯える他ない、というような突き詰めた彼の認識は、いずれ批評が作品の周囲を旋回し続けてそこにたどり着くことはない、という事実に対する反語的...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.88-89
[素材─構造]
スティーヴン・ホールの設計による《サルファティストラート・オフィス》は、外観を構成する銅板のパンチングメタルと、ところどころに穿たれた、大小さまざまな開口部が印象的な建築である。こうした特徴から、この建築を読解する手がかりとして、まず始めに素材へと目が向かうのが一般的なアプローチとして妥当であるかに見える。しかし細かく...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.104-107
[鼎談]
なぜ「技法」なのか? 今村──今回の「建築の技法」という特集は、建築について語る時、建築家によるコンセプトにそのまま寄り掛かるのではなく、また建築の技術について語る時、その技術だけを取り出してきて客観的に記録にすることが目的ではありません。建築家の考えとそれを支える技術のつながりを、きちんと描写しようというのが趣旨です...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.72-87
[キーワード]
連続と切断の言語風景── 1990年代の都市と建築をめぐって 南泰裕 たったいま終わりを告げたばかりの、1990年代の都市と建築を切り出して、「何かが確実に変わったのだ」、とわれわれは言うことができるだろうか。ミシェル・フーコーにならってエピステーメーの変容を、あるいはトーマス・クーンを想起してパラダイム・シフトの痕跡...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.68-87
[インタヴュー]
「デコンの終わり」と「都市破壊業KK」/時代の分水嶺としての一九六五年、一九九五年 五十嵐太郎──今日、磯崎さんにおうかがいしたいテーマはいくつかありますが、出発点としては、磯崎さんが伊藤ていじさんたちと『建築文化』一九六三年一二月号で特集した「日本の都市空間」の問題設定を挙げたいと思います。あの特集企画は、六〇年代が...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.54-67
[建築を拓くメディア]
跳躍台としての言葉 建築は、言葉では建たない。 千言万語を華麗に費やしてみても、建築が現実につくられゆく情況のなかで、言葉はモノの具体性に対して塵ほどの力も持ちえない。いかな理論の糊塗も、モノとしての建築を前に、ことごとくはじき飛ばされる。建築という現実態において、言葉は重ねれば重ねるほどその訴求力を減じてゆき、モノが...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.106-110
[批評]
現代建築の歴史は必然的に多様なものであり、雑多ですらあるだろう──建築そのものから離れた、人間的な環境を形成するための構造の歴史。そしてそれらの構造を統制し方向づけようとする歴史。そうした試行の政策や方法を考案しようとした知識人たちの歴史。完全で明確な言葉へと辿り着くことを断念した、新しい言語についての歴史。これらの歴...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.129-154
[フィールドワーク]
不可視の領域である皇居と、それを円環状に取り巻く都市域によって、長らく「空虚の中心」(ロラン・バルト)としてイメージされてきた東京の都心。この特異な領域をめぐって、ヨーロッパの国際建築展において与えられた“urban voids”なる概念をスプリングボードとしつつ、ここで都市イメージの更新を試みる。すなわち、広大で不可...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.181-192
[対談]
八束はじめ南泰裕八束──今回の南さんの論文を読んで、かなりの部分で見解が共有されているな、という気がしました。特に南さんが、湾岸で起きているさまざまな現象を必ずしも全面的には否定していないというところは、非常に重要なポイントだと思います。僕も湾岸に関しては、自分の計画の対象ではないけれど、考えてみる必要があるだろうと思...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.86-91
[批評]
1語り得ぬ都市へのまなざし 〈すでに明らかな前提として深く了解されているのにもかかわらず、その全体性を不確かな手触りにおいてしか問えないでいる〉──都市の現在性へのまなざしは、何よりもまずこのような認識のもとで開かれるより他ないだろう。都市を、今のわれわれはもはや違和の環境として対他的に読み下すことはできない。都市とい...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.74-85
[批評]
1 いま、ここにある現実にたしかな違和を感覚する者が、そこを超え出ようと意志し、おのれの可能性を彼岸に向かって投企しようとするならば、その意志はおしなべて境界の横断へと向かうだろう。境界はいずれ、彼岸の可能性をはばみ、交通を阻害し、意志と自由を脱力させる鉄壁として了解されている。制度の壁、集団の壁、国家の壁、言葉の壁、...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.188-191