2019・8・18(日)愛知祝祭管弦楽団「神々の黄昏」
愛知県芸術劇場 コンサートホール 2時30分
アマチュア・オーケストラ「愛知祝祭管弦楽団」(団長 佐藤悦雄)が3年前から手掛けて来たワーグナーの4部作「ニーベルングの指環」全曲セミ・ステージ形式上演ツィクルスが、ついに今年の「神々の黄昏」で完成をみた。
指揮は三澤洋史(同団音楽監督)、コンサートマスターは高橋広(副団長)。
声楽陣は、大久保亮(ジークフリート)、基村昌代(ブリュンヒルデ)、初鹿野剛(グンター)、成田眞(ハーゲン)、大須賀園枝(グートルーネ)、三輪陽子(ヴァルトラウテ)、大森いちえい(アルベリヒ)、本田美香・船越亜弥・加藤愛(ノルン及びラインの乙女)、愛知祝祭合唱団(合唱指揮・神田豊壽)。
スタッフは佐藤美晴(演出構成)、礒田有香(舞台監督)、渡辺瑞帆(美術)、吉田真(字幕制作)、その他の人たち。
なによりも第一に、リーダーの佐藤悦雄団長以下、このオーケストラが一丸となって大プロジェクトに取り組んだ、その意欲と演奏とを讃えたい。これは、紛れもない「偉業」である。
アマオケが「指環」ツィクルスに挑んだ例はこれが初めてではないが、オーケストラの演奏水準の高さや音楽の濃密さから言えば、この愛知祝祭管のそれは、絶賛に値する。今日はホルン・セクションなどにあれこれ不備があったといっても、その大半は「もし公演に2日目があれば、その時はうまく行くだろう」と思われる類のものに過ぎなかったのである。他の管楽器群も弦楽器群も立派な出来だった。
特に弦の柔らかい響きは特筆すべきもので、美しい空間的な拡がりを生み出していた。
ただ一方、その美しさゆえに、部分的には物足りないところもあったことは事実だ。たとえば第2幕後半、ハーゲンとブリュンヒルデとグンターの3人の間にどす黒い陰謀がめぐらされる場面では、そこの音楽に本来備わっているはずの、世界を揺り動かすような悪魔的な性格が充分に表出されていなかった、ということもある。
第1幕の「ハーゲンの見張り」や、第2幕冒頭の「アルベリヒ父子の場」などのように、テンポの遅い個所では不気味さも充分出ていたのはたしかだが、テンポの速い個所においては、「魔性」を表出する前に、演奏の「勢い」だけが先行してしまった、ということだろうか。
とはいっても、この楽団は、とにかく、アマオケなのである。ホルンのソロを吹きまくっていた奏者でさえ、プロではなく、スジャータの社員さんなのである。そうした人たちが、これだけの見事な「神々の黄昏」を演奏したのだ。全曲冒頭の重厚な演奏ひとつとってみても、それが下手なプロオケ顔負けの素晴らしさだったことを思えば、これ以上、あれこれ言うことはなかろう。
三澤洋史の、やや速めのテンポによる、無駄な誇張の一切無い制御により鼓舞されたこのオーケストラは、この大曲の本来の美しさを浮き彫りにして余すところなかったのである。
一方、ソロ歌手陣はアマチュアでなく、れっきとしたプロ集団だ。
アルベリヒを歌った大森いちえいは、出番は少ないものの、前作同様に凄みのある歌唱を聴かせてくれた。
嬉しい驚きはハーゲン役の成田眞で、彼の歌唱はこれまでにもいくつかの脇役で聴いて来たが、今回はまさに彼の本領発揮だろう。底力のある声も魅力である。ドイツ語歌詞に更なるメリハリと鋭い表現力が加われば、個性的なワーグナー・バスとして君臨できること確実だ。
同様に初鹿野剛も声が素晴らしく、今日は気の弱い領主役のグンター役とあって少々控えめな表現だったが、次はもっと「前へ出る役」で聴いてみたいものだ。
大久保亮は健闘していたが、この人の声はもともと、ジークフリートのようなヘルデン・テナーのものとは違うのではないか?
ブリュンヒルデの基村昌代は、最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に自らの全てをぶつけた、といった感があった。「ヴァルキューレ」から歌って来た彼女の、同役の締め括りというにふさわしい歌唱だったのは間違いない。
ただ、第2幕までは歌のパワーをセーブしていた感もあって━━特にその第2幕では、ただ旋律的に美しく歌うだけでなく、ドイツ語の歌詞にもっと強靭なメリハリと、言葉の意味を生かした強い表情が欲しいところだった。
合唱団はオルガン下の席に位置していたが、演技も交えてなかなかの熱演であった。今日は、演技らしい演技をしていたのはその合唱団だけ、という舞台だったのだが・・・・。
その演出構成は、私が日頃から注目している佐藤美晴。気鋭の若手である。昨年までは小道具も使ったりして、かなりいろいろ仕掛けのあるステージを繰り広げていたのに、今年は不思議なほどシンプルなスタイルの、「限りなく演奏会形式に近いセミ・ステージ形式」という感になっていた。
そうなるとむしろ、いろいろ加えられる照明が諸刃の剣のようになって来る。今回の舞台は、作品の性格が悲劇であるのにもかかわらず、あまりに煌びやかな光のステージと化してしまっていたのではなかろうか? 全曲大詰の場、ヴァルハル炎上の場面で、きらきら輝く「光の束」が上方から下がって来た時には、なにか別のオペラでも観ているような錯覚に陥ったほどだ。
彼女が「ワーグナーの夜と霧」の概念を打破し、「神々の黄昏」の物語に別の意味を付与させようとしたのならそれはそれで一つの考え方だろう。しかし、プログラム冊子掲載のコメントを読む限り、必ずしもそういう見解とは解釈できないのだが━━。
30分の休憩2回を挟み、終演は8時15分頃。
来年は、9月5日と6日に、「指環」4部作を2回に分けて抜粋演奏するそうである。
アマチュア・オーケストラ「愛知祝祭管弦楽団」(団長 佐藤悦雄)が3年前から手掛けて来たワーグナーの4部作「ニーベルングの指環」全曲セミ・ステージ形式上演ツィクルスが、ついに今年の「神々の黄昏」で完成をみた。
指揮は三澤洋史(同団音楽監督)、コンサートマスターは高橋広(副団長)。
声楽陣は、大久保亮(ジークフリート)、基村昌代(ブリュンヒルデ)、初鹿野剛(グンター)、成田眞(ハーゲン)、大須賀園枝(グートルーネ)、三輪陽子(ヴァルトラウテ)、大森いちえい(アルベリヒ)、本田美香・船越亜弥・加藤愛(ノルン及びラインの乙女)、愛知祝祭合唱団(合唱指揮・神田豊壽)。
スタッフは佐藤美晴(演出構成)、礒田有香(舞台監督)、渡辺瑞帆(美術)、吉田真(字幕制作)、その他の人たち。
なによりも第一に、リーダーの佐藤悦雄団長以下、このオーケストラが一丸となって大プロジェクトに取り組んだ、その意欲と演奏とを讃えたい。これは、紛れもない「偉業」である。
アマオケが「指環」ツィクルスに挑んだ例はこれが初めてではないが、オーケストラの演奏水準の高さや音楽の濃密さから言えば、この愛知祝祭管のそれは、絶賛に値する。今日はホルン・セクションなどにあれこれ不備があったといっても、その大半は「もし公演に2日目があれば、その時はうまく行くだろう」と思われる類のものに過ぎなかったのである。他の管楽器群も弦楽器群も立派な出来だった。
特に弦の柔らかい響きは特筆すべきもので、美しい空間的な拡がりを生み出していた。
ただ一方、その美しさゆえに、部分的には物足りないところもあったことは事実だ。たとえば第2幕後半、ハーゲンとブリュンヒルデとグンターの3人の間にどす黒い陰謀がめぐらされる場面では、そこの音楽に本来備わっているはずの、世界を揺り動かすような悪魔的な性格が充分に表出されていなかった、ということもある。
第1幕の「ハーゲンの見張り」や、第2幕冒頭の「アルベリヒ父子の場」などのように、テンポの遅い個所では不気味さも充分出ていたのはたしかだが、テンポの速い個所においては、「魔性」を表出する前に、演奏の「勢い」だけが先行してしまった、ということだろうか。
とはいっても、この楽団は、とにかく、アマオケなのである。ホルンのソロを吹きまくっていた奏者でさえ、プロではなく、スジャータの社員さんなのである。そうした人たちが、これだけの見事な「神々の黄昏」を演奏したのだ。全曲冒頭の重厚な演奏ひとつとってみても、それが下手なプロオケ顔負けの素晴らしさだったことを思えば、これ以上、あれこれ言うことはなかろう。
三澤洋史の、やや速めのテンポによる、無駄な誇張の一切無い制御により鼓舞されたこのオーケストラは、この大曲の本来の美しさを浮き彫りにして余すところなかったのである。
一方、ソロ歌手陣はアマチュアでなく、れっきとしたプロ集団だ。
アルベリヒを歌った大森いちえいは、出番は少ないものの、前作同様に凄みのある歌唱を聴かせてくれた。
嬉しい驚きはハーゲン役の成田眞で、彼の歌唱はこれまでにもいくつかの脇役で聴いて来たが、今回はまさに彼の本領発揮だろう。底力のある声も魅力である。ドイツ語歌詞に更なるメリハリと鋭い表現力が加われば、個性的なワーグナー・バスとして君臨できること確実だ。
同様に初鹿野剛も声が素晴らしく、今日は気の弱い領主役のグンター役とあって少々控えめな表現だったが、次はもっと「前へ出る役」で聴いてみたいものだ。
大久保亮は健闘していたが、この人の声はもともと、ジークフリートのようなヘルデン・テナーのものとは違うのではないか?
ブリュンヒルデの基村昌代は、最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に自らの全てをぶつけた、といった感があった。「ヴァルキューレ」から歌って来た彼女の、同役の締め括りというにふさわしい歌唱だったのは間違いない。
ただ、第2幕までは歌のパワーをセーブしていた感もあって━━特にその第2幕では、ただ旋律的に美しく歌うだけでなく、ドイツ語の歌詞にもっと強靭なメリハリと、言葉の意味を生かした強い表情が欲しいところだった。
合唱団はオルガン下の席に位置していたが、演技も交えてなかなかの熱演であった。今日は、演技らしい演技をしていたのはその合唱団だけ、という舞台だったのだが・・・・。
その演出構成は、私が日頃から注目している佐藤美晴。気鋭の若手である。昨年までは小道具も使ったりして、かなりいろいろ仕掛けのあるステージを繰り広げていたのに、今年は不思議なほどシンプルなスタイルの、「限りなく演奏会形式に近いセミ・ステージ形式」という感になっていた。
そうなるとむしろ、いろいろ加えられる照明が諸刃の剣のようになって来る。今回の舞台は、作品の性格が悲劇であるのにもかかわらず、あまりに煌びやかな光のステージと化してしまっていたのではなかろうか? 全曲大詰の場、ヴァルハル炎上の場面で、きらきら輝く「光の束」が上方から下がって来た時には、なにか別のオペラでも観ているような錯覚に陥ったほどだ。
彼女が「ワーグナーの夜と霧」の概念を打破し、「神々の黄昏」の物語に別の意味を付与させようとしたのならそれはそれで一つの考え方だろう。しかし、プログラム冊子掲載のコメントを読む限り、必ずしもそういう見解とは解釈できないのだが━━。
30分の休憩2回を挟み、終演は8時15分頃。
来年は、9月5日と6日に、「指環」4部作を2回に分けて抜粋演奏するそうである。