2019・8・6(火)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル&ソッリマ
フェスタサマーミューザKAWASAKI
ミューザ川崎シンフォニーホール 7時
今日の登場は、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。指揮は、この4月から同楽団の首席客演指揮者となった藤岡幸夫である。シベリウスの「レンミンカイネンの帰郷」で開始したあと、ジョヴァンニ・ソッリマをソリストに迎えたドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」を演奏した。
このソッリマの演奏が、とにかく凄い。全身で音楽に没頭するような大きな身振り、時には指揮の身振りまで交えるステージ姿は━━「チェロ界のジミ・ヘンドリックス」と呼ばれるそうだが━━私にはむしろ、そのかみのロストロポーヴィチを思い出させる。
演奏そのものは、ロストロポーヴィチのそれよりも開放的で明朗で、湧き上る情熱のままに弾いて行くといったタイプ。ドヴォルジャークらしい哀愁や郷愁などからは少し離れるが、その代り、この作曲家がふだん見せない激情や興奮を隠すことなくさらけ出す━━と言ったイメージを連想させる演奏にも喩えられようか。
第3楽章でソロ・ヴァイオリンと応酬する個所では、コンサートマスターの青木高志(ゲスト)との丁々発止の対決が聴かれた。
ここも昔N響の演奏会で、コンマスの海野義雄が身を乗り出して挑戦的に弾きまくるのを、「かかって来い」と言わんばかりの身振りで応戦したロストロポーヴィチを彷彿とさせるソロが繰り広げられた。青木の身振りは、海野とは違って端然としていたものの、演奏自体にはそうした気魄の火花が飛び交っていたように思われたのである。藤岡も、ここぞという山場を、がっしりと決めていた。
ソッリマのソロ・アンコールは、「お知らせボード」によれば、自作の「ナチュラル・ソングブック」の第4・第6、とのこと。これまた超絶技巧で、足を踏み鳴らし、会場の手拍子まで誘うという陽気な作品。ソッリマは、楽器を高々と頭上にあげて拍手に応える。会場は沸いた。
第2部で、藤岡とシティ・フィルが演奏した大曲は、芥川也寸志の「交響曲第1番」だった。1955年に上田仁指揮東京響により初演された由。
第4楽章にはプロコフィエフの「第5交響曲」などの影響も聴かれるが、芥川得意のオスティナート手法よりは、むしろ息の長い強烈な咆哮が目立つ。そのあたりは、ショスタコーヴィチの影響とも言えるかもしれない。
極めて緻密で分厚く、濃密な音づくりで、これでは当時のか細い薄っぺらな響きしか出せぬ日本のオーケストラの演奏では真価が伝わらなかったろう。
当時の日本の作品の多くに言えることだが、その真の価値は、今日の向上した日本のオーケストラでこそ発揮されるだろう。その意味でも、私たちは、日本の古典作品をもう一度見直してみるべきだ。藤岡幸夫が今後ライフワークとして手がけたいと宣言している、日本の先人作曲家の作品を掘り起こす活動は、大いに意義のあることだと思う。
今日の登場は、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。指揮は、この4月から同楽団の首席客演指揮者となった藤岡幸夫である。シベリウスの「レンミンカイネンの帰郷」で開始したあと、ジョヴァンニ・ソッリマをソリストに迎えたドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」を演奏した。
このソッリマの演奏が、とにかく凄い。全身で音楽に没頭するような大きな身振り、時には指揮の身振りまで交えるステージ姿は━━「チェロ界のジミ・ヘンドリックス」と呼ばれるそうだが━━私にはむしろ、そのかみのロストロポーヴィチを思い出させる。
演奏そのものは、ロストロポーヴィチのそれよりも開放的で明朗で、湧き上る情熱のままに弾いて行くといったタイプ。ドヴォルジャークらしい哀愁や郷愁などからは少し離れるが、その代り、この作曲家がふだん見せない激情や興奮を隠すことなくさらけ出す━━と言ったイメージを連想させる演奏にも喩えられようか。
第3楽章でソロ・ヴァイオリンと応酬する個所では、コンサートマスターの青木高志(ゲスト)との丁々発止の対決が聴かれた。
ここも昔N響の演奏会で、コンマスの海野義雄が身を乗り出して挑戦的に弾きまくるのを、「かかって来い」と言わんばかりの身振りで応戦したロストロポーヴィチを彷彿とさせるソロが繰り広げられた。青木の身振りは、海野とは違って端然としていたものの、演奏自体にはそうした気魄の火花が飛び交っていたように思われたのである。藤岡も、ここぞという山場を、がっしりと決めていた。
ソッリマのソロ・アンコールは、「お知らせボード」によれば、自作の「ナチュラル・ソングブック」の第4・第6、とのこと。これまた超絶技巧で、足を踏み鳴らし、会場の手拍子まで誘うという陽気な作品。ソッリマは、楽器を高々と頭上にあげて拍手に応える。会場は沸いた。
第2部で、藤岡とシティ・フィルが演奏した大曲は、芥川也寸志の「交響曲第1番」だった。1955年に上田仁指揮東京響により初演された由。
第4楽章にはプロコフィエフの「第5交響曲」などの影響も聴かれるが、芥川得意のオスティナート手法よりは、むしろ息の長い強烈な咆哮が目立つ。そのあたりは、ショスタコーヴィチの影響とも言えるかもしれない。
極めて緻密で分厚く、濃密な音づくりで、これでは当時のか細い薄っぺらな響きしか出せぬ日本のオーケストラの演奏では真価が伝わらなかったろう。
当時の日本の作品の多くに言えることだが、その真の価値は、今日の向上した日本のオーケストラでこそ発揮されるだろう。その意味でも、私たちは、日本の古典作品をもう一度見直してみるべきだ。藤岡幸夫が今後ライフワークとして手がけたいと宣言している、日本の先人作曲家の作品を掘り起こす活動は、大いに意義のあることだと思う。
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日本の作品
先生のおっしゃるように、日本の作品の真の価値は、今日の向上した日本のオーケストラでこそ発掘されますよね。藤岡さんのライフワーク宣言は素晴らしいと思います。その藤岡さんが主席指揮者の関西フィルさんが、6月の定期演奏会で、黛敏郎さん、矢代秋雄さん、芥川也寸志さんの作品を取り上げていらっしゃいました。素晴らしい取り組みだと思います。
藤岡先生がこの度、シティ・フィルとの関りを深められるとのことで、嬉しく思います。先生は、関西での普及公演にも熱心で、良い成果をあげられておられるようですし、例えば昨今、第九などでも安易に東京の歌手を関西に連れてくる指揮者、楽団が多い中で、関西の力量のある歌手との好演を続けられており、また、ベートーヴェンの交響曲の演奏全体としても常に注目させていただいています。ファンとして、今後が非常に楽しみです。
再演のすすめ
初演魔だった岩城さんに再演魔になろうとしている山田和樹氏、演奏される現代音楽の曲は1.2度ぐらいでは記憶にとどめられないのが普通。
まして日比谷公会堂の残響の少ないホールの問題もあった上田仁氏のショスタコ交響曲連続に演奏されていた氏に敬意を表したい。(11番や12番日本初演をTVで聞いた記憶がある。)その時は解らなかったが。
脳内の海馬から大脳皮質に記憶されるには何度か(録音でも)聞いて感動することが必要、プルーストがカペーカルテットを自宅に招いてベートーベン後期のカルテットを聞いていた有名な話があるが,現代はそれに比べれば恵まれているといえるし多方、情報が多すぎて手が回らないともいえる。クラシック音楽は本来反復して聞けば誰でも理解できるもの、演奏云々よりもまず曲を聴くことだ。
まして日比谷公会堂の残響の少ないホールの問題もあった上田仁氏のショスタコ交響曲連続に演奏されていた氏に敬意を表したい。(11番や12番日本初演をTVで聞いた記憶がある。)その時は解らなかったが。
脳内の海馬から大脳皮質に記憶されるには何度か(録音でも)聞いて感動することが必要、プルーストがカペーカルテットを自宅に招いてベートーベン後期のカルテットを聞いていた有名な話があるが,現代はそれに比べれば恵まれているといえるし多方、情報が多すぎて手が回らないともいえる。クラシック音楽は本来反復して聞けば誰でも理解できるもの、演奏云々よりもまず曲を聴くことだ。
ソッリマの演奏は、個人的には?でした。
情熱ある演奏ではなく、
情熱があるように見せてる演奏に
感じてしまったのです。
低弦はいつも、芯が鳴らなかったですし。
もっと、身ぶりだけでなく、
音楽で勝負してほしかったのですが。
私には情熱を装った雑な演奏に
聞こえてしまいました。
会場は盛り上がっていたので、
私の耳が悪いのかもしれませんが。