2018・8・5(日)ミンコフスキ指揮東京都交響楽団「くるみ割り人形」
ミューザ川崎シンフォニーホール 3時
恒例の「フェスタ サマーミューザKAWASAKI2018」━━在京プロオーケストラや大学オーケストラが軒並み顔を揃えるフェスティバルで、7月21日から始まっている。
今日はマルク・ミンコフスキが東京都交響楽団を指揮して、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」全曲を演奏するというプログラム。コンサートマスターは矢部達哉。児童合唱はTOKYO FM少年合唱団。ほぼ満席の様相。
久しぶりに聴くと、この「くるみ割り人形」、実にいい曲だ。チャイコフスキーという人は、何とまあ豊かなメロディを持っている作曲家なのだろうと、今さらのように感心してしまう。
その「くるみ割り」が、予想通り、聴き慣れているものとはかなり異なる演奏になった。チャイコフスキーの管弦楽法の多彩さは充分に再現されていたものの、彼特有のあの豊麗なロシア的な色彩感はあまり感じられず、むしろ鋭角的で研ぎ澄まされた音たちが円舞するといったような演奏というか。
冒頭の序曲からして、弦の硬質な響きでリズムが刻まれて行く。第1部の終結の、雪の松林を進む場面の音楽など、夢幻的なお伽噺の世界を彷徨う甘美さといったイメージは薄く、むしろ直截で明快な叙情性のみが進んで行くといった感だ。
第2部の「お菓子の国」の場面になると、おなじみの舞曲集が多少は柔らかい親しみやすさを以って響いていたが、それでも「花のワルツ」や、そのあとの「アダージョ」などでは、シンフォニックな力感を優先させた、音楽の骨組のほうが目立つ演奏になっていたように感じられた。
こういう解釈の「くるみ割り人形」の演奏は、あまり私の好みではないけれども、しかし、そういう好みは別として、それはいかにも「古楽系出身」のミンコフスキらしいスタイルだと思うし、チャイコフスキーの音楽への彼なりの個性的なアプローチとして理解できるというものである。
とはいえ、彼がレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルを指揮してこの「くるみ割り人形」を演奏したら、到底このようなものでは済まないはず。今日はモダン・オケの都響との演奏ゆえに、どうやらこのあたりで踏み止まってくれていた、とでも言えそうである。
ミンコフスキも、今や日本でも大変な人気指揮者となった。今日も、ソロ・カーテンコールで熱烈な拍手と歓声を浴びていた。私も、もちろん好きな指揮者である。この数日の間に、ドビュッシーとチャイコフスキーという2人の作曲家に対するミンコフスキの姿勢を聴くことができて、幸いだった。
なお今日は都響の楽員がカーテンコールの最後に全員で客席の方を向き、コンマスが代表して一礼するという終わり方をしたが、いつからそういうスタイルを採るようになったのか。あの愛想のない雰囲気だった都響が、何と今は笑顔で・・・・。先日もギルバートがマーラーを振った時に、最後に彼の合図で全員が正面とP席とに一礼するという行動を執り、私たちを驚かせたものだったが。
私は以前からあの仏頂面(?)には不満で、このブログでも2回ばかりそれに触れたことがあったので、今日のようなやり方は大いに結構であると思う。
恒例の「フェスタ サマーミューザKAWASAKI2018」━━在京プロオーケストラや大学オーケストラが軒並み顔を揃えるフェスティバルで、7月21日から始まっている。
今日はマルク・ミンコフスキが東京都交響楽団を指揮して、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」全曲を演奏するというプログラム。コンサートマスターは矢部達哉。児童合唱はTOKYO FM少年合唱団。ほぼ満席の様相。
久しぶりに聴くと、この「くるみ割り人形」、実にいい曲だ。チャイコフスキーという人は、何とまあ豊かなメロディを持っている作曲家なのだろうと、今さらのように感心してしまう。
その「くるみ割り」が、予想通り、聴き慣れているものとはかなり異なる演奏になった。チャイコフスキーの管弦楽法の多彩さは充分に再現されていたものの、彼特有のあの豊麗なロシア的な色彩感はあまり感じられず、むしろ鋭角的で研ぎ澄まされた音たちが円舞するといったような演奏というか。
冒頭の序曲からして、弦の硬質な響きでリズムが刻まれて行く。第1部の終結の、雪の松林を進む場面の音楽など、夢幻的なお伽噺の世界を彷徨う甘美さといったイメージは薄く、むしろ直截で明快な叙情性のみが進んで行くといった感だ。
第2部の「お菓子の国」の場面になると、おなじみの舞曲集が多少は柔らかい親しみやすさを以って響いていたが、それでも「花のワルツ」や、そのあとの「アダージョ」などでは、シンフォニックな力感を優先させた、音楽の骨組のほうが目立つ演奏になっていたように感じられた。
こういう解釈の「くるみ割り人形」の演奏は、あまり私の好みではないけれども、しかし、そういう好みは別として、それはいかにも「古楽系出身」のミンコフスキらしいスタイルだと思うし、チャイコフスキーの音楽への彼なりの個性的なアプローチとして理解できるというものである。
とはいえ、彼がレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルを指揮してこの「くるみ割り人形」を演奏したら、到底このようなものでは済まないはず。今日はモダン・オケの都響との演奏ゆえに、どうやらこのあたりで踏み止まってくれていた、とでも言えそうである。
ミンコフスキも、今や日本でも大変な人気指揮者となった。今日も、ソロ・カーテンコールで熱烈な拍手と歓声を浴びていた。私も、もちろん好きな指揮者である。この数日の間に、ドビュッシーとチャイコフスキーという2人の作曲家に対するミンコフスキの姿勢を聴くことができて、幸いだった。
なお今日は都響の楽員がカーテンコールの最後に全員で客席の方を向き、コンマスが代表して一礼するという終わり方をしたが、いつからそういうスタイルを採るようになったのか。あの愛想のない雰囲気だった都響が、何と今は笑顔で・・・・。先日もギルバートがマーラーを振った時に、最後に彼の合図で全員が正面とP席とに一礼するという行動を執り、私たちを驚かせたものだったが。
私は以前からあの仏頂面(?)には不満で、このブログでも2回ばかりそれに触れたことがあったので、今日のようなやり方は大いに結構であると思う。
コメント
私も以前から、オケの皆さんの仏頂面は反対派です。例えば出来の良し悪しは現場の中での問題であり、その空気を観客が背負うものではないですし、演奏中に海外のオケ(バンベルク響で最近目撃しました)で奏者同士のココというタイミングで互いにアイコンタクトで笑みを浮かべながら演奏する姿。やはり最高です。
読者さんのコメント
私もバンベルク響のアイコンタクトには嬉しく思いました。日本のオケでも、爽やかな笑顔が、もっと欲しいです。
いつもブログを大変楽しみにしており、的確な批評に唸らされている者です。私もこの日曜の演奏会を幸運にも体験することができました。正直言って何時も「組曲」止まりのような者にとって、大変な驚きと気付きに満ちた2時間でした。こんなに起伏に富んだドラマチックな大曲だったとは! まるで初期の3つの交響曲の延長線上の完成形がこの曲にあるのでは?と感じさせていただきました。組曲版のカレイドスコープのようなミニチュアールな世界から、もっと拡がりのある世界へ連れて行ってくれました。それは曲の持つもともとのポテンシャルの高さや都響の反応の良さもさることながら、やはりミンコフスキの意欲的な音楽づくり、全曲聴かないなんてもったいない、ここにもう一つの交響的なドラマがあるんですよ! とも言わんばかりに音楽を引っ張っていってくれました。もしかするとそれが本来のメルヘン的な響きより骨ばった鋭角的な音楽に感じさせたのかもしれません。ただ私のような頭でっかちの聴き手にとってガツンとくる衝撃と、ただただ音楽に奉仕する、そう言えば終演後スコアを指し示していましたね、ミンコフスキの喜びに満ちた指揮姿に圧倒的な感銘を受けたのでした。
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